心の丸窓(36)
「喪の仕事」という視点から、とりとめもなく想いめぐらせたこと<後編>

☞「心の丸窓」は心の杜の医師・心理師による心の診療に関するコラムです。

〜心の丸窓(35)より続く〜 この映画の重要なテーマの1つは、自分にとって大切な対象を失うという「対象喪失」であり、4姉妹だけでなく、登場人物のほとんどが何らかの喪失の物語を抱えています。父親の葬儀のシーンから始まり、1年後の別の人物の葬式のシーンで終わるこの映画全体は、重要な対象を喪った(喪っていく)時に、十分に悼み悲しむ作業が必要なことを私たちに教えてくれます。喪われてしまう大切な対象に対する愛情や感謝だけではなく、ときには怒りや恨みや罪悪感も含めて、私たちはいろいろな情緒を体験しながら、さまざまな記憶を呼びおこしつつ「対象喪失」を何度も味わい、最終的には、自分の心の内にその対象の居場所を見つけていくのかもしれません。精神分析の世界では、そうした営みを「喪の仕事」と呼び、精神療法において扱っていく重要なテーマの1つと考えています。心の丸窓(25)(30)

しかし、誰にとっても「喪の仕事」は決してたやすいとはいえない困難な作業であり、喪失に向き合う苦痛のあまり、ときに滞ってしまい、重篤な抑うつ状態に陥ってしまうことさえあります。この映画の中でも、登場人物たちの「喪の仕事」はずっと滞ったままでした。主人公の異母妹が「喪の仕事」をスタートすることができたのは、前編で述べた2つの「出会い」があったからであり、3姉妹が「喪の仕事」に取りかかれるようになったのも、異母妹に出会えたからです。4人姉妹が、四季の移ろう鎌倉の街で共に暮らしながら、「diary」を刻むようにゆっくりと時間をかけて「喪の作業」を進めていく姿を見ながら、私は、私たちが「喪の仕事」を進めていくためには「共にする誰か」と「時間」が必要なのだろうと改めて想いました。もしかすると、精神療法が日々おこなわれている面接室では、まさにこうしたプロセスがセラピストと共に営まれているのかもしれません。私たちは「対象喪失」の後に残された人生をそれでもなお力を尽くして生きていくわけですが、それぞれが営んでいく「喪の仕事」の積み重ねこそが、その後の人生を育み慈しむための原動力となっていくのではないでしょうか? この映画を観ながら私は、そんなことをとりとめもなく想いました。

 

(耕雲 記)

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