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心の丸窓(57)言葉を使う

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


第二次世界大戦中の英国の首相チャーチルを主人公にした映画を観ました。この作品は、日本人の特殊メイクアーティストがアカデミー賞を受賞したことで有名になりました。そちらも見事でしたが、私が目をひかれたのは、演説の原稿に対するチャーチルの取り組み方でした。毎度口述タイプを何度も直し、ラジオ放送で国民に語りかける場面では、生放送開始ぎりぎりまで悩んで言葉を練り続けていました。このあたりは史実に忠実な描写のようです。数々の難局を乗り切る時に彼は、このような演説の言葉を強い味方につけていたといわれています。

精神科の診療はもちろん演説ではありませんが、言葉はとても大きな意味を持ちます。まずは、患者さんの語りに医師は耳を傾けながら、ところどころで質問や、確認をしながら進みます。そして、医師は見立てや方針、具体的な治療方法などをお伝えすることになります。それらをどのような表現で患者さんに伝えるか、そこが医師の思案のしどころでもあります。安心を伝えることもあるし、厳しいことを伝えなければならないこともあります。患者さんに届く言葉、患者さんが受け取りやすい言葉はなんだろうと、模索することも医師の仕事の重要な要素だといえます。

そしてそのような営みは、演説とは異なって相互的なものです。患者さんから質問や考えを投げかけていただくことが欠かせません。病気や困難は形にしにくい面もあるのですが、患者さんとともに言葉を使ってしっかりと理解し、それを共有してゆきたいと私たちは思っています。

 

(風蘭 記)

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心の丸窓(56)偶々<たまたま>について

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


「たまたま○○にいった」「たまたま○○に会った」など、「たまたま」という言葉は日常的によく使われます。いっぽう私たち心の臨床家の世界に、「精神分析にたまたまはない」という言葉があります。これは一見偶然に見える出来事も、よくよく分析してみると実はいろいろな要因が影響し合った末の必然的成り行きなのだ、という物事の捉え方を表した言葉です。この成り行きにしばしば深い影響を与えるものに「無意識的動機」があります。

例えば「Aさんが学生時代によく行った喫茶店にたまたま立ち寄ったら、たまたま大学時代の同級生Bさんと会い、話をしていたらたまたま意気投合し連絡を取り合うようになった」という出来事があったとしましょう。Aさんがその喫茶店に立ち寄ったのはなんらかの事情でAさんの中で学生時代を懐かしく思い、その気分に浸りたい無意識的動機があったからかもしれません。もしBさんが同様の事情で最近その喫茶店に通い詰めていた、ということがあったとすれば、2人が遭遇するのは時間の問題だったといえるでしょう。そしてAさんとBさんの心境が同じであれば、意気投合したのも自然な成り行きといえるでしょう。このように一見偶然に見えることにも、しばしば隠れた意味や理由、「必然」があります。

一方日本人は「自然と物事が起こる」という考え方を好むと言われています。文化や価値観、思想と言語は密接な関係があり、日本的な考え方は日本語表現にも反映されています。たとえば日本語は、「する」より「なる」に親和性があると言われています。英語なら「今度彼女と結婚します」というところを、日本語では「今度彼女と結婚することになりました」ということが少なくありません。また日本語で「私は臆病なので、それをするのをためらった」というところを、英語では無生物が主語となる構文で「私の臆病はそれをするのをためらわせた」と表現することがあります。しかしこれは日本語にはなじまない表現です。

このように日本では「自然と物事が起こる(=なる)」という考え方が受け入れられやすく、「いろいろな心の中のものが事態を動かし合う(=する)結果として物事が成り立つ」というのはなじみにくい考え方かもしれません。しかし今まで偶然だと思っていたものが、実はさまざまな想いや要素の積み重ねの結果だと考えると、人生がひと味違う奥行きをもったものになりそうな気がしませんか?

 

(月河葵 記)

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心の丸窓(55)私は花粉症じゃない?

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

2月頃から春までは花粉症の季節です。アレルギー反応によって引き起こされる花粉症はスギなどのありふれた植物が原因なので、日本に住んでいればいつ発症してもおかしくありません。ですが、症状が出ても「私は花粉症じゃない」と認めたがらない人もいるようです。「風邪が長引いているだけだ」とクシャミをしながら言い張る人がいるというのも笑い話のようですが、何だか不思議ですね。

しかし、今年初めて発症する人を想定してみましょう。それまで何の症状もなかったのに冬が終わりに近づくと、鼻水、クシャミ、眼の痒みなど体調が大きく変化してきます。これは季節性の花粉に対する体のアレルギー反応だ、とすぐには気づかないでしょう。経験に照らして「風邪かな」と考え、栄養を摂ったり、休養したり、感冒薬を飲んだり、様子を見ようとするかも知れません。未知の経験に自分の従来の知識を当てはめて対応するのです。しかし、花粉症は改善せず、春になるほど飛散する花粉の量も増えて症状は悪化します。この辺で「これは花粉症かな」と気づき、医療機関を受診する人が多いでしょう。が、中には「いや、私は違う」と言い続ける人もいるでしょう。そこには「数ヶ月前まで健康だった」という過去の自分へのこだわりがあるかも知れません。ほとんど目に見えない花粉に対する体の反応がこんなにつらいアレルギー症状になる、という仕組みがつかみにくいせいもありそうです。

病気の因果関係は、古くなった刺身を食べてお腹をこわす、といったわかりやすいものばかりではなく、多くの病気では単純ではありません。今ある症状の原因を自分なりに理解するためには、知識と経験を基に説明を考え出すことになります。ですが、わからないものを説明する時、どうしても自分の思いが入り込む余地が生まれるものです。すると、「私はいつだって健康だ」「私は花粉症などという病気ではない」といった自己イメージや願望から、花粉症という事実は認識しにくくなります。そして、こうした心の動きは意識しないところで起こるので、現実に気づけないまま、症状が続くことになりかねません。

花粉症のトピックから、何だか恐ろしい話になってしまいました。しかし、仕事上の問題でも、家族関係や人間関係の問題でも、何か自分にはわからない事態が生じると、やはり、花粉症の例と同じように、気づかないうちに自己イメージや願望に添って理解して、現実が認識できなくなることはよくあるようです。そうすると問題に適切な対処もできなくなるので、苦しい状況に陥り、精神的な不調に繋がる方もいます。その場合は、精神科・心療内科で相談されることが、問題を見つめ直す手助けになります。

 

(鰯 記)

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心の丸窓(54)耐えられるストレスの限界を受け入れること

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。
  

 毎日私達は、何人もの仕事関係のストレスに苦しむ患者さんにお会いしています。彼らは抑うつ、不安、強迫、頭痛・腹痛・不眠あるいは吐き気といった心身症症状など、さまざまな症状を呈しています。もちろん皆さんそれぞれ、そのストレスを避けられない理由をお持ちですが、私達はときどき、患者さんに共通する考え方のパターンのようなものを見かけることがあります。

多く見られるパターンの一つが期待、要求水準の高さです。私がここで意味しているのは会社や上司からの要求や期待だけではなく、患者さんの自らに対する期待の高さのことです。例えば「私よりもっと夜遅くまで、ハードに働いている人がいっぱいいるに違いない。だから私は文句を言えない。逃げてはいけない」などと考えたりします。このような患者さんは、キャパシティオーバーだと症状が警報を鳴らしているのにも関わらず、休むことも、仕事の負荷を減らすために助けを求めることも、ときには治療に来ることさえも、状態がとても悪くなるまで躊躇します。

そういう患者さんが自分に対する期待値を下げるのがこれほど難しいのはなぜなのでしょう。その理由の一つは、負荷がキャパシティを超えているととらえることが、彼らにとっては自分の能力の限界として感じられるからではないかと私は考えています。自分の望んだように、あるいは期待したように、自分ができない、働けないということを受け入れるのは傷つくことです。そういう人たちは、助けを求めることや現在のタスクをあきらめることは「負け」、と考える傾向があります。彼らは負けることは「簡単だ」と考えたり、ときにはそう言ったりもしますが、実際は自分に限界があるということを認めるのはより難しいことなのです。

しかし患者さんが自分の限界を否認し続けている限り、その症状が改善することはないでしょう。なぜなら症状はキャパシティ超えのサインであり、つぶれてしまいそうだという警告だからです。彼らが限界を受け入れる痛みを克服することができれば、私達は困難な状況に対処するより現実的な方法を考えはじめることができます。

ときどき私は患者さんから「『負け』たら私は何を得られるのか?」と聞かれることがあります。とても難しい質問ですが私は、「自分自身と世界に対するよりバランスのとれた、より現実的な見方のできるパーソナリティに成長できる可能性」ではないかと思っています。

(具眼 記)

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心の丸窓/Round window of the mind(53)Accepting the limitation of the tolerance to the stress

☞心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

Round window of the mind is the column about mental therapy written by doctors of Kokoronomori Shinjuku Clinic.

Every day we see many patients suffering from work related stresses. They present various symptoms such as depression,anxiety, obsessions, psychosomatic symptoms, such as headache, stomachache, insomnia,nausea, etc. Of course, in the most of the cases, they have their own reasons that they cannot avoid those stresses. But sometimes, we may find a kind of patterns in their way of thinking.

One of the common patterns is high expectation. With this, I mean not only the high expectations or requirements for the patients from their bosses or their companies, but also, the patients' high expectations for themselves. For example, a patient may think, "There should be many more people who are working even harder than I, until later in the night. Therefore, I can't complain it. I should not run away." Thus he/she hesitates to take a rest, to seek for help to reduce their work load, or sometimes, even to seek for a treatment until their states get very bad, while his/her symptoms are ringing the alarm bells that the load is over the capacity.

Why is it so difficult for such patients to reduce their self-expectations? One of the reasons, I suppose, might be that accepting this idea that the load is over the capacity is felt by them as the limitations of their ability. It is hurtful for them to accept that they cannot do as they wished. They tend to think that seeking for help or giving up the current tasks means that they become "losers". Although, they think, and sometimes say, that losing or giving up is "easy", it is actually more difficult for them to accept that they have limitations.

However, they would not improve their symptoms as far as they deny their limitations, because the symptoms are the signs of the over capacity, and the alert for the collapse. Once they overcome the pain of accepting the limitations, we may be able to think of more realistic way to cope with the difficult situations.

Sometimes, I am asked by patients, "What will I get when I "lose"? I suppose the answer of this question would be that they develop and grow their personalities to have more balanced and realistic view of themselves and the world.

(Gugan)

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心の丸窓(52)夢見る力

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。
  

数年前私は、とても魅力的な名前の焼酎と出会いました。その名は、「夢見る力」。薫り高く、とても豊かな味わいでした。ところで皆さんは「夢見る力」から、どんな「力」を思い浮かべますか?私の心に浮かんだのは、将来への希望に満ちた展望をもてる力ということではなく、やはり寝ているときに夢を見る能力のことでした。

フロイトは、「夢は無意識への王道である」(夢は、無意識を理解する上での重要な手掛かりになるという意味)と述べました。その夢は、私たちの心の象徴作用によって初めて見ることが可能になります。象徴作用とは、心の中のある思いを、代理のもの(象徴)に置き換え、端的な形で表現する心の作用のことです。例えば、私たちが「ハトは平和の象徴(シンボル)」と言うとき、「平和」という複雑な概念あるいは状態を、「ハト」という穏やかな小動物になぞらえて表現しているわけですが、このある物事(平和)を適切な対象(ハト)に置き換えて表現するのが心の象徴作用です。フロイトは、その作用を通じて、無意識の心が抱いていることを夢という形に象徴化して表現していると捉えたのです。この作用は、心の丸窓(37)でも述べられたように、母親と赤ん坊の健全な相互交流の積み重ねの末に獲得されます。もしそれが十分になされない場合には、十分に象徴的な意味ある夢を見ることができなくなります。

精神療法の初回面接で患者さんが、以下のような夢を報告したとしましょう。「私は車の教習所で初めて路上に出た。とても緊張したが、隣に乗っている教官はベテランのようで、頼りになる感じだった。」そんな時私が治療者ならば、その夢を、初めて面接に臨む不安や緊張、そして治療者が頼りになる存在であってほしいという願いといった患者さんの無意識を意味するものとして理解し、そのことをお伝えするでしょう。こうした交流は、互いの象徴作用に基づくものであり、精神分析的精神療法はそうした営みの積み重ねによって豊かな実りをもたらすのです。

(MUSASHI 記)

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心の丸窓(51)「自律神経失調症」ってどんな病気?

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うつ病などの心の病で受診された方から、ときに「私は自律神経失調症ではないのでしょうか?」と尋ねられることがあります。一般の方には比較的馴染みのあるこの病名はしかし、今日精神医療の現場で使われることはほとんどないので、さてどうご説明したものかとしばし思案することになります。今回はこの病名についてお話ししましょう。

そもそも自律神経とはどんな神経なのでしょう。私たちの身体には、生命を維持し、活動を行うのに最適な身体の内部環境を調整するためのさまざまなシステムが備わっています。内分泌(ホルモン)系や免疫系と並んで重要な働きをしているのが、脳の視床下部という所を中枢とする自律神経システムです。この神経系は意志とは無関係に、その時点での活動状況に適した内部環境を自律的に調整しています。

自律神経システムには交感神経系と副交感神経系という2つのサブシステムがあり、循環器(血圧や脈拍)や呼吸器(気道の拡張や収縮)、消化器(胃腸の動きや消化液の分泌)などさまざまな臓器を双方が拮抗しながら、ときには協働しながら調整をしているのです。このような自律神経システムに体質的な脆弱性を抱えている場合があります。そのために調整の不調をきたしやすい方には、起立性低血圧(立ちくらみ)や発汗異常、便通・排尿の異常や体温や呼吸調整の異常などさまざまな身体の不具合が生じます。これを本態性自律神経失調症と呼びます。ところが自律神経系の中枢である視床下部は、記憶や情動、意欲に密接な関わりのある大脳辺縁系というさらに上位の中枢からの強い影響を受けているので、自律神経システムに体質的な問題がなくても、情動や意欲、ある記憶に結びついた感情や気分の不調に伴って自律神経系の不具合が生じることがあります。つまりうつ病やさまざまな神経症に伴って、上で述べたような多様な身体不調が生じることがあり、臨床上はそのようなケースの方がはるかに多いのです。

個々の方に生じた病態を身体的な観点から捉えて「自律神経失調症」と呼ぶのが良いのか、それとも精神的な観点から捉えて「うつ病」や「神経症」と呼ぶのが良いのか。治療を前提に考えるならば、うつ病と神経症とでは対応が随分と異なりますし、身体のレベルでどういうことが起こっているかということより、その不調の本質に迫る呼び方をする方が私は良いと考えています。

しかし少なくとも日本では、自らの不調を心の病より身体の不具合と捉えることを好む傾向があるようで、身体的検査所見を伴わずに生じるさまざまな体調不良の訴え(不定愁訴)があると、その根本にある心の病を丁寧に見立てることなく、「自律神経失調症」という便利な病名をつけて済ませてしまうことがときにあるようです。私たちは、より適切な治療を行うためにも、自律神経の不調の背後にある病の本質を、患者さんご自身と一緒に考え理解したいと思っています。

 

(カラマツ林の梟 記)

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心の丸窓(50)創造と万能感

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。
  

旧約聖書のバベルの塔のエピソードは次のようなものです。〜人々が、天にも届く高い塔を造って名声を上げてまとまって暮らそうと思い立ち、建設を進めた。神はそれを知り、人々がいくつもの異なる言葉を話すようにさせたために、混乱によって塔の建設は中断とならざるをえず、人々は散り散りになっていった。〜人間の傲慢を神が罰し、牽制したという解釈が定説といえるでしょう。

いま、日本で展示されているブリューゲルの「バベルの塔」を見てきました。細密に描かれた人々の建設の営みは勤勉で悦びに満ちて見え、あまり傲慢には感じられません。能動的に何かを造り出すことには、本来健全な満足や自己肯定感が備わっているものです。同時にそこには、どこまでもやってみたいという欲望もあるでしょう。その果てには何でもできると万能感を抱いてしまいかねない危うさも人間にはあります。

精神分析的な姿勢は、人は心の中では自由でありつつも、現実とふれあうところに生じる限界を受け入れることを旨とします。人が健全な自己肯定感を失わず、かつ自己愛が肥大しすぎないという幅の中を揺れ動き、限界の苦渋も味わうことが心の深みを増すといえるでしょう。これは人類の課題でもあり、ひとりの人間の一生の課題でもあるように思えます。

(風蘭 記)

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心の丸窓(49)精神分析と証明可能性について

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昨今、科学は進歩し、またエビデンス全盛の時代で多くのことが目に見えるかたちで証明され、分かるようになってきたことは誰もが実感できることでしょう。

その中で「精神分析はどこか曖昧でよくわからない、うさんくさい」という印象を持たれる方もいるかもしれません。

フロイトが提唱した無意識の概念は理論や根拠のあるものです。しかし、無意識の存在が精神分析をうさんくさいと感じられる方を納得させられるレベルで科学的に証明されているかというと、現段階ではまだそこには至っていないようです。

しかし、「なかなか証明できないもの=正しくないもの」なのでしょうか?

論理学にゲーデルの不完全性定理というものがあります。その定理が示していることは、おおまかに言って、「正しくても証明できない命題がある」ということです。ゲーデルが研究した論理学に限らず、人間の理性には限界があり、正しいことをすべて証明できるわけではないと考えてみることもできるでしょう。

無意識の存在が証明不可能なものかはわかりません。これから証明されるかもしれません。一つ言えることは、すでに証明されていることや明確にわかっていることだけが真実ではないようだということです。

そして、まだ明確に証明はされていない無意識を利用した治療である精神分析で多くの方の症状が良くなったり、人生が豊かになったりしていることも事実なのです。

(月河葵 記)

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心の丸窓(48)花粉症の季節

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花粉症の季節です。くしゃみや鼻水、眼や喉の痒みに苦しんでいる方も多いでしょう。このような症状は花粉が直接引き起こすというよりも、人体にとって異物である花粉に対して免疫系が起こす反応だという事実はよく知られています。免疫系は独自の細胞が働いて自己防御機能を発揮しますが、考えてみると、自己を守る免疫系のために症状が出て苦しい思いをするというのもおかしな話です。でも、免疫系の働き過ぎによって引き起こされる病気というのは、決して珍しくはないようです。

ここで視点をメンタル面に移してみます。人は皆、自分に合ったやり方で周囲の環境に馴染む努力をしています。何でも一人でこなす人がいるかと思えば、逆に、困ったら周囲に頼る人も居ます。自分の意見を出すより和を重んじる人もいれば、人とは一定の距離を置いて安定を保つ人もいます。それぞれの性格とも言えるし、環境のストレスに対する心の自己防御機能とも適応戦略とも言えます。それで大体は元気に生活できますが、環境が変化してストレスが強まると問題が生じることがあります。とてもこなし切れない仕事量を一人で抱え込んだり、逆に頼れる人が居ない状況でも自分で動けなかったり、周囲に合わせ続けて板挟みになったり、頑なに周囲から心を閉ざしてしまったりと、適応戦略が裏目に出てしまうこともあるのです。また、やたらと周囲とぶつかったり、目前の問題から目を逸らすなど、普段使わない不適切な戦略で対処してしまうこともあります。いずれにしても、自己防御の戦略が、不適応な方向に導く結果となります。これらを振り返って軌道修正ができればよいのですが、環境ストレスが強まっている状況ではそれも難しく、やがてメンタルな不調に繋がることもあるでしょう。それはうつや心身症、神経症をはじめ現れ方は人それぞれですが、心の防御メカニズムを不適切に働かせ過ぎた結果の不調という点では共通していると言えます。ですから、治療では症状への対処とともに、再発予防と今後の生活を生き易くするに、心の防御機能について振り返る必要も出て来ます。そのプロセスも適切なあり方がさまざまなのは心の治療の独特なところでしょうか。

免疫という自己防御機能が過剰となる花粉症真っ盛りのこの季節は、職場や学校などでの変化が多く、心の自己防御機能がバランスを崩しやすい季節でもあります。不調を感じたら、早めにご相談なさってください。

( 鰯 記 )


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心の丸窓(47)心の傷と成長

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 心に傷を負うことは痛みを伴うため、私たちは通常できるだけ避けようとします。しかし、私たちの心は傷を糧に成長するということもまたひとつの事実ではないでしょうか。今回私は、心の傷とパーソナリティの成長との関係を考えてみたいと思います。

 もちろん私は、親が子供の成長を促すために子供の心を傷つけるべきだ、というようなことを言っているのではありません。もし親が自分の子供を故意に傷つけようとするのであれば、それは虐待とみなされるかもしれません。しかしときに親は、子供の無垢であっても おそらく大きすぎる要求や期待に応えることに失敗します。それどころか、親は子供の要求よりも自分のそれを優先する事があるかもしれません。なんという裏切りでしょう!こうした親の失敗は子供の心を深刻に傷つけることがあります。そしてその傷は子供のパーソナリティに「トラウマ」という深刻なダメージを残すかもしれません。子供はいらだち、怒り、落胆し、あるいは絶望するなどさまざまに反応するでしょう。しかしそのような体験は、子供にとって困難で残酷なこの世界の現実に直面する機会でもあるのです。つまり、両親は完璧な人ではなく、普通のありふれた人間で、子供の要求を満たすのに失敗する事もあるという現実です。親の能力にも限界がある、というわけです。

 子供がこういった状況に対処する方法は大きく分けて二通りあります。受け入れることと回避することです。回避は否認すること(意識的、無意識的に認めないで否定すること)を含みます。例えば子供は、親の失敗という現実を見ずに、親が自分を嫌っているからわざと攻撃したのだ、と考えるかも知れません。つまり子供の目から見れば虐待だ、と受け取るのです。あるいは、それは親の失敗ではなくて自分が悪いからだ、と考えるかも知れません。「僕がよい子じゃなかったからママは落ち込んで、僕の世話をすることができなかったんだ。」というように。この種の捉えかたによって、子供は両親像を理想化されたままにしておくことはできるかも知れませんが、現実を見て受け入れることからは遠ざかってしまいます。一方、もしも子供が現実を受け入れることができれば、痛みを伴いながら、そして傷跡を残しながらも、傷口を癒しそれを乗り越えることができるかも知れません。そしてその時初めて子供は成長し発達することができるのです。それは世界の現実をもっと良く見ることができるようになるということを意味しているのです。

 この一連の過程では、子供の傷を癒すための支える環境の役割も重要になります。これは例えば、親が自らの失敗を、たとえ避けえないことであったとしても、真摯に謝罪することであるかも知れません。あるいは子供の復讐に耐えることかも知れません。別のいい方をすれば、親もまた痛みを経験するのです。

 このようにパーソナリティの成長は、真に心が傷ついた経験とその克服を経て達成されるのです。

(具眼 記)


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心の丸窓/Round window of the mind(46) Hurt and development

☞心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

Round window of the mind is the column about mental therapy written by doctors of Kokoronomori Shinjuku Clinic.


Hurt of the mind is painful. Usually, we try not to be hurt as much as we can. However, it is also true that, sometimes, we develop our personality when we are hurt. In this article, I would like to consider about the relationship between hurt and development of the personality. 

Of course, I am not saying that a parent should hurt his/her child to stimulate the child's development. If a parent intentionally tries to hurt his/her child, it can be regarded as an abuse. But sometimes, a parent fails to meet child's innocent, but, maybe, too great needs or expectations. Moreover, the parent may even prioritize his/her own needs. What a betrayal! These failures may leave serious wound on the child's mind. And the wound may cause a serious damage, or trauma, on the personality of the child. The child may be frustrated, humiliated, disappointed, despaired, etc. However, at such moments, the child would have an opportunity to face with the hard and cruel reality of the world; the parent is not a perfect person, but a normal, ordinary human being who may fail to meet child's needs. That is to say, there is a limitation of the capacity of the parent. 

There are two kinds of the ways of dealing with these kinds of situations for the child; accepting and avoiding. Avoiding includes denial. For example, turning blind eyes to the reality, the child may think that the parent was intentionally attacking him from hatred, i.e. abuse as he perceives. Or, he may think that it was his fault, rather than the parent's failure. "Mom was depressed and could not take care of me, because I was not a good boy.", for example. This kind of understanding can protect his idealized view of his parent, but he avoids seeing and accepting the reality. If the child can accept the reality, taking pain, he may be able to overcome the wound, though a scar might be left. And only then he can develop and grow, which means becoming able to see more of the reality of the world.

And then, it is also important to have a supportive environment for the child to heal the wound. This might be, for example, sincere apology of the parent about the failure, even knowing it is sometimes inevitable. Or, it could be tolerating the child's retaliation. In other words, the parent also takes pain.

Thus, personal development can only be achieved by true experience of being hurt.

(Gugan)

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心の丸窓(45)「しくじり」に潜む無意識 ―失錯行為とは?

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箱根の温泉に行った時の出来事です。私はゆったりとした休日を満喫し、友人と帰りのバスを待っていました。ところが来るバス来るバス、お目当てとは違うのです。「な~んだ、また違うよと、私たちは待ちぼうけ。定刻をかなり過ぎて、やっとお待ちかねのバスがやって来ました。「も~、待たせるねと思いつつ、ステップに足を掛けようとしたその時です。入り口に「門前払い」と書かれているではありませんか!!「何だこれは??!!びっくりした私は、もう一度そこに目をやりました。「運賃先払い」、、、私は思わず吹き出してしまいました。それを聞いた友人も大笑い。

さて皆さんも、このような経験をなさったことはないですか。読み間違いに限らず、言い間違い、書き間違い、やり損い、置き忘れなど、思いがけない言動を行うことを、フロイトは失錯行為と呼びました。例えば、その結婚を心底では願っていない出席者が披露宴の祝辞で、「本日は誠にご愁傷さまです」と口走ったという笑い話もありますね。フロイトはこうした失錯行為を、一つの意識的意図(例えば「お祝いを述べる」)が、それとは相いれない無意識的な意向(例えば「祝福したくない」によって邪魔され結果生じるしくじりと理解しました。

私はやっと来たバスに勇んで乗ろうとしましたが、実は何本ものバスに「門前払い」されたように感じてひどく腹を立てていたのでしょう。このように日常生活の何気ないしくじりには、私たちの無意識が潜んでいるのです。

( MUSASHI : 記 )


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心の丸窓(44)「母と暮らせば」を見て

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 先日「母と暮らせば」のDVDを見ました。1945年8月9日11時2分、長崎の町は一発の原子爆弾で焼け野原になりました。そのような状況下での、ある人々の生き方が描かれた作品です。爆心地近くの長崎医科大学で被爆し死んだ息子を嵐の二宮和也さんが、生き残った母親を吉永小百合さんが、そして息子の恋人役を黒木華さんが演じています。原子爆弾の恐ろしさや戦争の悲惨さなど、さまざまなテーマがこの作品には込められていると思いますが、私は吉永小百合さんが演じた「母親」の心情に注目したいと思います。

 被爆前、既に夫と長男は他界しており、彼女はこの次男と二人家族でした。その状況での息子の急な死は、到底受けいれられるものではなかったろうと思います。映画の中では、息子は幽霊として登場します。この幽霊は、息子の死を受けいれられなかった母親が、せめてもの慰めとして見た幻影だと私は思います。

実際の生活では、母親は亡き息子の恋人と、まるで親子のように支えあいながら生きていました。その状況に母親は安堵しつつも、このままでは彼女の将来を奪ってしまうとも悩んでいました。ことあるごとに「誰か良い人がいたら、息子のことは忘れて」と母親は息子の恋人に言うのですが、恋人も母親から離れることを拒みます。最終的には「ご飯食べて行かない?」と母親が言い、支えあう二人の生活が続いていきます。母親は、彼女の中に死んだ息子を見ていたからこそ、手放すことができなかったのでしょう。

ある時息子の恋人が、自分の娘を原爆で失ったある女性から、「何であなたが生き残ったの?」と責められたという話を母親にします。母親は、「その人は気が動転していたのよ」と息子の恋人を庇います。それは彼女の本心でもあったのでしょうが、この「何であなたが生き残ったの?」という責めも実は母親の中にもあったものではないかと私は思いました。「何であなたが生き残ったの?」は、生き残った息子の恋人に対する母親の怒りでもあったでしょうし、生き残った自らを責める言葉でもあったに違いありません。また、自分を置いて先に死んでしまった息子に対する「何であなたは死んでしまったの?」という怒りすら含まれていたのだと思います。他にも母親のさまざまな心情がこの作品には描かれていますが、ここではこの辺までにしておきたいと思います。

 私はこの作品を見て、人は大事な人を喪った時、この母親のようにさまざまな思いを抱くのだなぁとしみじみと実感しました。死者に対するこうした複雑な思いを消化していくことこそ喪の仕事(☞心の丸窓25.35.36)と呼ばれる心のたいせつな営みなのですが、その苦渋に満ちた大変さを改めて痛感しないわけにはいきません。喪の仕事を一人で行うことは多くの困難を伴うことで、精神分析や精神分析的精神療法はその一助になると言えるでしょう。

(湖底の月 記)


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心の丸窓(43)サイコセラピー(精神療法あるいは心理療法)ってどういうもの?

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。
  

  前回はサイコセラピーがカウンセリングと異なり、病いを抱えた方を主な治療の対象とすることを述べました。改めてそれを定義すると次のようになります。「サイコセラピーとは、訓練を受けた専門家が、精神障害、行動上の不適応その他の情緒的な問題を抱える人々との間に、熟慮されたプロフェッショナルな関係を結び、その働きかけを通して、現存する症状や問題を取り除いたり、変化させたり、和らげたりし、さらには対象者の人格の発展や成長を促すことを目的とするあらゆるタイプの処置をいう」(ウォルバーグ、1954年)。すなわちサイコセラピーとは、薬や機器を用いるのではなく、治療者(セラピスト)との対人的な交流を通じた治療法であり、しかもその治療者は十分な訓練を受けた専門家である必要があります。そしてそれぞれのサイコセラピーは基礎となる理論を持ち、熟慮された治療の設定と方法論を活用して行われねばなりません。

  サイコセラピーにはたくさんの種類がありますが、ここでは今日世界中で普遍的に行われている幾つかを簡単にご紹介しましょう。

1)行動療法:これは条件づけ療法とも言われ、実験的に確立された学習理論に基づき、不適応行動(現実的に不健全な行動)の改善を目指す方法です。つまり目で見える行動に限って治療の対象にする点が特徴です。とても単純化した表現をするならば、好ましくない行動に対しては負の強化因子(ムチ)を、好ましい行動に対しては正の強化因子(アメ)を与えることで、行動を修正していく方法と言えます。

2)認知行動療法:「認知」とは個人が自分とそれを取り巻く世界をどう見るか、どう解釈するかというその「主観的捉え方」のことです。人はみな個性的な「認知フィルター」と通して現実を捉えているわけですが、そのフィルターが色づけされたり大きく歪んでいるときに、さまざまな病的状態を招くと捉えます。認知行動療法は、この認知フィルターがどのような色づけと歪みを持つのかを見つけ出し、その修正を図ることで治療を試みようとする方法です。

3)精神分析的精神療法:人の不適応な行動や認知の歪みには、それなりの背景や理由があり、それらが生来的な気質や、生まれてから今日に至るまでに積み重ねられてきたたくさんの人間関係や経験が、複雑に織り成されながら形作られた「個性」と密接に関係していると捉えます。したがって精神分析的な治療では、単に不適応行動を変えるとか、歪んだ認知を修正することを目的とはせず、その背後の「個性」の抱える苦悩を深く共に理解していくことが目指されます。それはそれまで未整理のまま無意識の中にしまい込まれていた不安や葛藤が、意識化され深く理解されていくと、それらに由来する症状が改善していくというフロイト以来の基本的な治療機序を基礎に置くからです。

このようなそれぞれの持つ特徴をよく理解した上で、ご自分に最も適したサイコセラピーを選択するために専門家とご相談されることをお勧めします。

(カラマツ林の梟)

(注:心の杜・新宿クリニックでは、十分な訓練を受けたセラピストによる精神分析的精神療法を主な方法として臨床を行っています。)


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心の丸窓(42)カウンセリングとセラピー

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

「カウンセリングを受けたい」と希望して私たちの元を訪れる方がいらっしゃいます。しかし患者さんご自身それがどういう方法であると想像し、それによって何を期待していらっしゃるのかを伺うと、かなり漠然としていたり、誤解を含んでいたりすることが少なくありません。それはある意味で無理もないことなのです。 なぜなら専門家の間ですら、この「カウンセリングとは何か」についての共通認識は未だ得られていないのですから。そこで今回は「カウンセリングcounseling」とはどのようなものかについて、それと類似しながらも質の異なる「セラピー」と対比しながら解説することにしましょう。

「セラピーtherapy」 は和訳すると「療法」になります。「療」の字に「病だれ」が付いていることから察せられるように、それは基本的に「病い」の状態にある方を、一定の専門的 方法を用いて健康な状態に復することを目指す臨床的営みを指しています。私たちの専門領域に限れば、病いの対象は主に「心」あるいは「精神」なので、それ を表す「サイコpsycho-」を頭に冠して「サイコセラピーpsychotherapy」、 日本語にすると「心理療法」、あるいは「精神療法」のことを指しています。これに対してカウンセリングは基本的には「病い」をその対象とはしません。むしろ他者や社会との実生活上の関わりについての課題や悩みがその主題となります。ですから、心理カウンセリングの他にも、世の中にはキャリアカウンセリング、エステティックカウンセリングなどさまざまな生活分野のカウンセリングがあります。またカウンセリングとセラピーとでは方法にも大きな違いがあります。カウンセリングでは悩みの内容を詳しく伺い、整理し、それに対して専門的立場から、より具体的な助言をすることが中心になります。一方セラピーでは具体的悩みや課題にとどまらず、その基礎を成すお一人お一人の「自己」の、より深い理解と成長を通じた治療が主たる目的となるので、特定のテーマに限定することなく、自由に語られる内容を手掛かりに自分を見つめ直す作業が積み重ねられることになります。サイコセラピーには、その拠って立つ理論、治療の目標、方法によって幾つもの種類がありますが、それについては次回詳しくお話ししましょう。

(カラマツ林の梟 記)


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心の丸窓(41)治ることをめぐって

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 何かの病気にかかったら、誰でもすみやかに治りたいと願うものです。心の病気に関してももちろん同様です。ですから、患者さんやご家族から、治ることをめぐる質問を受けることがしばしばあります。そうした場面で私は、「病気にかかること」と「治る」ことをめぐるお話をするのが常です。

 心の病気はなぜおこるのか、これは現代医学においても、一部の病気以外についてはすっきりした答えは出ていません。おおまかにいえば、

(A)生まれもった脳の体質

(B)成長していく過程でのさまざまな環境による影響

(C)最近のストレスや生活状況、身体状況

の総和によります。その比率は個人個人かなり異なります。

例えばうつ病は、(A)+(B)+(C)によって脳のなかのセロトニンやノルアドレナリンといった物質が不足してしまった状態と考えられ、それを補正するような抗うつ剤を使います。また、休養をとりつつ(C)を軽くしておくことも必要です。それで症状が軽くなっていったら完治、とは残念ながら言いきれません。(B)によって完璧主義や責任の背負い過ぎになりやすいなら、再び(C)が過酷になって、結局ぶり返してしまうかもしれません。こうした場合、(B)の影響を部分的に修正することが必要となります。また(A)は入れ替えることはできませんから、どうしたら(A)にとってほどよい生活になるだろうか、と考えることを忘れてはならないのです。

 このように、病気になる前の状態に戻ることだけを目指すのではなく、長持ちする在り方を模索するのが精神医療のとらえ方である、といえるでしょう。

 

(風蘭 記)

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心の丸窓(40)思春期

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 思春期は人の心が発達するために人生でもとても重要な時期ですが、同時に通過するのがとても難しい時期でもあります。両親にとっても試練の時となるでしょう。今回少しこれについて考えてみたいと思います。

 思春期の課題の一つは自分の性的な肉体を受け入れ、それに適応していくことです。エディプス葛藤(異性の親とパートナーになりたいという欲求と、同性の親とライバル関係になる幼児期性愛の葛藤)がこの時期によみがえり、再び課題として取り組まれなければなりません。

 彼らにとってもう一つのとても重要な課題は、大人としてのアイデンティティを確立することです。言い換えれば、両親から独立していかなければならならないということです。この課題は想像するよりかなり大変なことです。なぜなら、彼らは自分たちのことを不適格で、他の大人達より劣っていると感じ、非常に不安でもあるからです。これらの不安を見ないようにすることが、彼らの大人に対する尊大で馬鹿にした態度を取らせる要因の一つになるかもしれません。彼らは自分自身の価値観や考え方を手に入れるために、自らの両親や両親を体現するもの、つまり学校の先生や権威などと戦う必要があるのです。これらの試みは時々、反抗や、時には暴力的な行動の形をとることさえあります。

 これに対して両親は何ができるでしょうか?私は個人的には、親が彼らの敵で居続けることはとても重要だと思っています。しかも彼らが反抗的である必要性を理解しつつ敵で居続ける必要があります。上に説明したように彼らは自立するために、親のような対象や権威と戦う必要があります。彼らはその上で、親は権威を象徴するものではなく、実はこれから生きていく辛い現実を体現しているのだ、ということを理解する必要があります。しかしそれは時には彼らにとって受け入れがたいものかもしれません。

 私はこの過程がいつも安全で穏やかなものになると言っているわけではありません。それは時には悲劇的な顛末を辿ります。しかし両親はもはやこの悲劇を以前子供達が小さかった頃のように止めることはできないし、それを思春期の子供達は認識しなければならないのです。なぜなら思春期の圧倒的な衝動から子供達と親自身を守る力が、両親にはないからです。そして両親も、彼らの子供達がもはや子供ではなく、自分たちとは分離した個人であるという事実を、痛みを伴って受け入れなくてはならないのです。

フォースがともにあらんことを。

*本稿は、心の丸窓(39)の日本語版です。

 

(具眼 記)

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心の丸窓/Round window of the mind(39) Adolescense

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

Round window of the mind is  the column about mental therapy written by doctors of Kokoronomori Shinjuku Clinic.


Adolescence is a very important phase of life for one's mental development, but at the same time, it is a very difficult time to pass through as well. And for the parents, too, it can be the time to bear the test. This time, I would like to think a little bit about this.


One of the tasks of adolescence is to adjust and accept their sexual bodies. The Oedipal conflicts (the wish to become a partner of the opposite sex parent and the conflicts with the same sex parent) revive in this period and it had to be worked through again. 


Another very important task is to establish their adult identity, in another word, to become independent from their parents. This task is far more difficult than one would imagine, because they also feel terribly anxious about themselves feeling inadequate and inferior to other adults. Denial of these anxieties could be one of the causes of their arrogant and contemptuous attitude towards adults. They need to fight with their parents and what represent parents, such as school teachers, authorities, etc. to gain their own sense of value or way of thinking. These attempts sometime take the forms of rebellious, or even, violent behavior. 


What can parents do with it? I think, it is very important to stay as an enemy for them, but with an understanding of their need to be rebellious. As I described, they need to fight with parental figure or authority to become independent. But they also need to know that parents are not really representatives of authority, but they represent hard reality to live with, although it can be unacceptable for them sometime. 


I am not saying that this process always would be safe and smooth. It could follow a tragic consequence. However, as adolescents need to realize, parents can not prevent the tragedy anymore as they could before, because parents do not have power to protect their children and themselves from adolescents' overwhelming impulse. And parents, too, have to painfully accept that their children are not children anymore, but they are to separate from them.


May the force be with you.


(Gugan)

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心の丸窓(38)時間感覚の不思議

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 いよいよ今年も師走となりました。忘年会、クリスマス、仕事納め、大掃除等々と、この1か月間は忙しなく矢のように早く過ぎていきますね。今回は、私たちの時間感覚について書いてみたいと思います。早く過ぎると言えば、愛する人と過ごす幸せな一時も、切ないほどあっと言う間・・・。一方退屈な授業や耳に痛いお説教を聞くのは、やけにゆっくりでじれったいものです。また大事な人を失って悲しみの渦中にある人にとって、時間は永遠に停止してしまったかのように感じられるかもしれません。このように、人間にとって時間の流の体験はそのときどきで変化します。では、私たちの時間の感覚はどのようにして生まれるのでしょうか

 前回のコラムでは、生まれたばかりの赤ん坊の心が、母親の心の働きを介した相互交流によって成長していく過程が述べられました。そこで健康的に良い体験が積み重なれば、赤ん坊は「おっぱいが欲しくても待つ」ことに耐えられるようにもなります。そこに欲求の満足を「待つ」という時間の感覚が生じるのです。ある研究者は、その過程を「時間体験のゆりかご」と呼びました。なんと素敵なネーミングでしょう。

 また、冒頭に述べたように時間感覚の在り方は、そのときどきのその人の心の在り様に左右されます。一般的に時間は、「○○したい」という願望がかなえられる時には「早く」、それが別の「××をしなければ」という心の働きによって妨げられる時には「遅く」感じられると考えられています。また、歳を取るにつれ時間が経つのが早く感じられるようになるのは、加齢によって「願望」が弱まり、結果的に欲求不満状態が緩和されるためだといわれます。そして師走に時間が早く過ぎるのは、この時期「~~しなくては」と忙しい気持ちのほうが、願望を満たしたいという気持ちよりも強くなるからと考えられます。つまり、「○○したいのに、××しなくてはならない」という心の葛藤状態(二つの相いれない気持ちのせめぎあい)は、この時期生じにくいというわけです。さらにうつ病をはじめさまざまな精神疾患においては、時間感覚の病的状態(停止してしまった感じ、バラバラで連続性が感じられないなど)が生じます。まさに「ゆりかごから墓場まで」、人間は生きている限り時間という体験が切り離せない存在です。時間感覚という視点から、人間の心の在り様をとらえてみるのも興味深いのではないでしょうか。

 

(MUSASHI 記)

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心の丸窓(37)ひとの心の成り立ちについて

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 今年のハロゥインは土曜日ということもあり、例年以上に盛大なものでしたね。仮装した人たちであふれた渋谷の街並みも何度もニュースで取り上げられていました。ここ数年、かぼちゃの顔の妖精ジャック・オー・ランタンも仮装行列もお馴染のものとなりました。私の記憶が正しければ、かつてはここまでハロゥインで盛り上がっていなかったと思います。これは、日本人がさまざまな文化を「取り入れ」ることに長けているということなのかもしれません。

 さて今回の心の丸窓は、私たちの考えているひとの心の成り立ちと「取り入れ」について述べてみたいと思います。なお「取り入れ」を語る時には「排出」という言葉が対となります。

 赤ちゃんは、まさに「取り入れ」と「排出」でお母さんを含む外界と交流しています。空腹や濡れたおむつに不快を感じると、泣いたり手足をばたつかせてお母さんにそれを「排出」します。その時の赤ちゃんは、「自分が空腹(または濡れたおむつ)で不快に感じている」と自分の状態を理解しているわけではなく、得も言われぬ不快感に苛まれ、ただ泣いたり手足をばたつかせることで、その不快感を「排出」せざるを得ないと考えられます。お母さんはそこから赤ちゃんの不快感を理解し、授乳したり、おむつを替えたりします。その時にお母さんが「おなかが減っていたのね」「おむつが濡れていて気持ち悪かったのね」という言葉をかけると、赤ちゃんはおっぱいでおなかが満たされる感覚や清潔なおむつという心地よい感覚的な満足だけではなく、自分の不快感の意味を母親の言葉を通じて理解するようになっていきます。そこで赤ちゃんは、空腹を満たしたりおむつを取り替えてくれ、自分の不快な体験を理解して伝えてくれる良いお母さん像を自分の心の中に「取り入れ」ます。

 もちろんお母さんは赤ちゃんの「排出」に常に正確に応えることはできません。したがって、お母さんが赤ちゃんの「排出」の意味を読み違えて対応した時は、不快を解消してくれない、理解に失敗する悪いお母さん像が「取り入れ」られてしまうのですが、これも避けられないことなのです。このように繰り返される母子関係の「取り入れ」「排出」をもとにして、赤ちゃんの心はだんだんとできあがっていきます。

 そういった良いお母さん・悪いお母さんの二つに分裂したお母さん像もいずれ、「良い面も悪い面も持っているお母さん」像という、より現実に即した理解へと変化していきます。そしてお母さん像に加えて、お父さんや兄弟姉妹、学校の先生や友達などいろいろな像が「取り入れ」られて、心はより複雑さを増していきます。

 今私が述べたのはすごく簡略化したもので、実際には赤ちゃんが生来持っている本能も大きく影響を及ぼしてきます。こうして出来上がる心の中には、さまざまな性質を持ったたくさんの像が存在しており、常に「排出」と「取り入れ」を繰り返し日々変化する内なる世界であると想定されています。そして人はそれぞれ違う人生を歩んでいますから、心は皆異なっているとも考えられます。

 ご存知のように、このような心は私たちを支えてくれるのですが、不調に陥ることもあります。例えば心の丸窓で何度も述べられている「対象喪失」<「心の丸窓」(25)(30)(35)(36)>は、心に大きな打撃を与え、私たちを不調にする可能性のある出来事です。対象喪失に伴って「ぽっかりと心に穴が開いた」という表現はなんと相応しいことでしょうか。

 私たちが行っている精神分析や精神分析的精神療法は、このような心と向き合い、患者さんの心からの「排出」を受けてその意味と心の在り方を私たちが理解し、その理解を伝え、それを患者さんが「取り入れ」る、そしてまた何かが「排出」される、その過程を繰り返し、心が少しずつ変化していく長い旅とも言えましょう。

 

(湖底の月 記) 

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心の丸窓(36)「喪の仕事」という視点から、とりとめもなく想いめぐらせたこと<後編>

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

〜心の丸窓(35)より続く〜 この映画の重要なテーマの1つは、自分にとって大切な対象を失うという「対象喪失」であり、4姉妹だけでなく、登場人物のほとんどが何らかの喪失の物語を抱えています。父親の葬儀のシーンから始まり、1年後の別の人物の葬式のシーンで終わるこの映画全体は、重要な対象を喪った(喪っていく)時に、十分に悼み悲しむ作業が必要なことを私たちに教えてくれます。喪われてしまう大切な対象に対する愛情や感謝だけではなく、ときには怒りや恨みや罪悪感も含めて、私たちはいろいろな情緒を体験しながら、さまざまな記憶を呼びおこしつつ「対象喪失」を何度も味わい、最終的には、自分の心の内にその対象の居場所を見つけていくのかもしれません。精神分析の世界では、そうした営みを「喪の仕事」と呼び、精神療法において扱っていく重要なテーマの1つと考えています。心の丸窓(25)(30)

しかし、誰にとっても「喪の仕事」は決してたやすいとはいえない困難な作業であり、喪失に向き合う苦痛のあまり、ときに滞ってしまい、重篤な抑うつ状態に陥ってしまうことさえあります。この映画の中でも、登場人物たちの「喪の仕事」はずっと滞ったままでした。主人公の異母妹が「喪の仕事」をスタートすることができたのは、前編で述べた2つの「出会い」があったからであり、3姉妹が「喪の仕事」に取りかかれるようになったのも、異母妹に出会えたからです。4人姉妹が、四季の移ろう鎌倉の街で共に暮らしながら、「diary」を刻むようにゆっくりと時間をかけて「喪の作業」を進めていく姿を見ながら、私は、私たちが「喪の仕事」を進めていくためには「共にする誰か」と「時間」が必要なのだろうと改めて想いました。もしかすると、精神療法が日々おこなわれている面接室では、まさにこうしたプロセスがセラピストと共に営まれているのかもしれません。私たちは「対象喪失」の後に残された人生をそれでもなお力を尽くして生きていくわけですが、それぞれが営んでいく「喪の仕事」の積み重ねこそが、その後の人生を育み慈しむための原動力となっていくのではないでしょうか? この映画を観ながら私は、そんなことをとりとめもなく想いました。

 

(耕雲 記)

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心の丸窓(35)「喪の仕事」という視点から、とりとめもなく想いめぐらせたこと<前編>

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

たまには映画の話でもしてみましょう。主人公の中学生の女の子は、自分が手を尽くして看病した父親を亡くしたばかりです。その女の子は「しっかり者」と周りから思われており、実の父親の葬儀の場面でも、すっかり参ってしまった義母を気づかい、かいがいしく腹違いの弟の世話をしていました。そうこうしていると、義母が喪主の挨拶をすることができないと泣きだし、その役割を放棄しようとします。その女の子なら「できるよ。しっかりしているから・・・」と皆が言い始めます。喪主の挨拶を押しつけられそうになった女の子が戸惑っていると、「それはいけません。これは大人の仕事です」と誰かが断固として主張します。そう言ってくれたのは、その女の子の腹違いの姉で、父親がその昔に捨てて出て行った3姉妹の長姉でした。『海街diary』という映画の冒頭の一場面です。

私は、「しっかり者」としか認めてもらえず「子どもであることを奪われた」その女の子が、「子ども」であるということを初めて誰かに見つけてもらえたこの瞬間にとても心打たれました。長姉は、義母では無くその女の子こそが父親を最期まで世話して看取ってくれたのだということも分かっていました。そして、そのお礼を女の子に伝えます。主人公の女の子は、寄る辺ない「子ども」の心を察してもらい、さらに、あたかも大人であるかのように「しっかり者」としてふるまうしか無かったこれまでの苦悩を理解してもらえた時に、ようやく涙を流して父親の死を悲しむことができました。それは、理解してくれる誰かとの「出会い」であり、自分がこれまで出会えていなかった「子ども」の自分との「出会い」でもありました。その後、その女の子は3姉妹のもとに引き取られ、4人で共同生活をするようになりますが、3姉妹もまた両親に続けて捨てられた過去を持っています。かつて父親に捨てられた時に1度父親を失い、父親の他界によって2度目の喪失を味わうことになった3姉妹と、異母妹である主人公の女の子は、はたしてこの経過の中で何を体験していくのでしょうか? ~心の丸窓(36)に続く~ 

 

(耕雲 記)

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心の丸窓(34)日本における精神療法トレーニング事情

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


先日、全国の有志の医学生と研修医を対象に、「精神分析 医学生・研修医セミナー  2015」という研修の集いが都内で開かれました。心の杜からは私を含む医師3名が講師として登壇し、若い医師やその卵の方たちと有意義な交流の機会を持つことが出来ました。そこでは、精神分析とその臨床実践や、精神医療への活用についての基礎的な理論と技法などの講義があり、受講者は自由にディスカッションに参加しました。

実はそのような教育研修の機会は、今の日本の医学教育においては、大学でも卒後の研修施設でもほとんど提供されることがありません。これは世界的に見るととても特異な状況と言えます。欧米諸国では、すべての精神療法の基礎になる「精神分析」について十分な時間をかけて学び、その上に立って精神療法に関する研修を受けることがプログラムとして組まれています。その中には、精神分析・精神療法についての知識を身につけるためのレクチャーの受講の他、数年にわたる何例かの精神療法の臨床経験と、それに対する上級医師からの継続的個別指導(精神療法スーパービジョン)、症例検討会への参加などが含まれます。ちなみに私たちのクリニックでは、それと同等もしくはさらに専門的なトレーニングを積んだ医師が診療にあたっています。しかし日本においてはそのような研修プログラムが制度化されておらず、個人の裁量に任されているため、精神科医の多くは、精神分析や精神療法に関する研修を受ける機会もないまま臨床の現場に出ているのが実態なのです。

精神科医が最も多く所属する日本精神神経学会では現在、精神療法に関する研修を組み込んだ研修体制を急ピッチで築こうとしています。しかし、実際にそれらが機能し、薬を処方するだけでなく人の心を専門的知識に基づいて理解し、専門的スキルと心をもって診療にあたることのできる精神科医が十分に活躍するまでには、いましばらくの時間がかかりそうです。

 

(カラマツ林の梟)


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心の丸窓(33)身も心も

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


 江戸時代の儒学者・貝原益軒による養生〜つまり健康についての指南書「養生訓」は、身体ばかりではなく精神の養生にもふれています。そのなかに「心は身の主なり」「身は心の奴(やっこ)なり」というくだりがあります。ここから、心は安らかにして、身はよく動かすことが健康によろしい、というようなことが説かれていきます。

 それはさておき、私は、「身は心の奴なり」というフレーズにいたく惹きつけられました。心療内科では、心が無理を重ね、その無理を引き受けた「奴」の身体が悲鳴を上げている状態の患者さんによくお会いします。医学的にいえば、心の首座である脳から自律神経系、内分泌系、免疫系のルートを通り、身体にはさまざまな症状が出現します。これが心身症とよばれる病態です。一方、これらのルートは通らず、心の中の無意識の葛藤が知覚(身体の五感)や運動の麻痺として身体に現れるのが転換症状で、フロイトが精神分析を開拓していく出発点には、この転換症状をもつヒステリーの患者さんたちとの出会いがありました。

 心と身体のつながりは複雑にからみあい、人それぞれに表現は多様ですが、私たちはしばしば、患者さんとともに「奴」の主張に耳を傾け、そこから「主」の危機にたどり着くような道行をしています。

 (風蘭 記)

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心の丸窓(32)PTSD

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。
この文章は前回のコラムの日本語訳です。


PTSDPost-Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)

東京に住んでいる限り、私たちは3月になると過去の外傷的な出来事を思い出さずにいられません。例えば、地下鉄サリン事件(1995320日)や東日本大震災(2011311日)などです。今回はトラウマ(心的外傷)とPTSDについて書いてみることにします。

PTSDはベトナム戦争後の退役軍人の研究によってよく知られるようになりました。自分や他の人が実際に、または危うく死ぬ、重傷を負うなどの外傷的なできごとに遭遇した後に発症します。たとえば、戦争やテロ、自然災害、身体的、精神的、または性的な暴力、深刻な事故などです。PTSDの患者さんは過覚醒、茫然自失、再体験、回避などの症状を呈します。再体験には繰り返されるフラッシュバックや外傷的な場面を夢に見ることなどが含まれます。回避というのは、トラウマを思い出させる、または思い出させるかもしれないような場面を避けることです。いくつもの研究が、SSRI(セロトニン選択的再取り込み阻害薬)やその他の抗うつ薬による薬物療法、CBT(認知行動療法)、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)がPTSDに効果があると報告しています。

しかし、次の二つの状況は「通常の」PTSDとは区別する方がよいでしょう。それは複雑トラウマと発達トラウマです。複雑トラウマとは慢性的で繰り返される トラウマです。例えば監禁される、または外傷的な体験に閉じ込められるような場合があげられます。発達トラウマとは、心と脳の発達にさまざまな影響を与える幼少期から慢性的に繰り返されたトラウマのことです。

現実にはトラウマをもつ患者さんの人生は、PTSDの理論で言われるほど単純ではありません。トラウマを伴うようなできごとが起きた後の生活は、以前の生活と同じとは限らないからです。例えば災害にあった人々の中には家や、家族や、仕事や、その他さまざまな貴重な財産を失う人が大勢います。そしてしばしば、普通の日常生活を取り戻すことは非常に困難であったり、とても長い時間がかかったりします。そのとき、人々は外傷的な状況にとらわれてしまったように感じるかもしれません。つまりそのような人々の状況は 複雑トラウマに似た側面を持っているのです。

フロイトはトラウマを、心を囲う防護壁に空いた穴だと表現しました。これにより、激しい感情が溢れ出して圧倒されてしまうことから心を守るような通常の判断能力が失われてしまいます。これはトラウマに対する初期反応と見なすことができます。患者さんはショックを受け、心の機能がバラバラになってしまいます。そして次の段階に進むと、恐怖、迫害感、自分がバラバラになってしまいそう な気持ちを伴う強い不安を感じ、自分が適切に守られ、愛されるはずだという期待や希望とともに、世界の全ての良きことが失われてしまったと感じるかもしれ ません。希望の喪失がトラウマの中心的な問題なのです。私はこのような患者さんに対して、薬物を処方したり、(CBTEMDRといった)定型的な手法を施したりするだけでは不十分だと考えています。

キャロライン・ガーランドという英国の精神分析家は次のように述べています。

(トラウマの)治療は、自分を理解しようとする人物に話を聴いてもらえると実感することから始まります。もし治療者が完全に圧倒されてしまうことなく、患者さんの心の中や外的な現実に生じた衝撃の大きさをいくらかでも受け止めることができれば、患者さんは意味のある世界をもう一度築き直すことができるかもしれないという希望を抱くことができるのです。


 (Gugan 記)

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心の丸窓/Round window of the mind(31) PTSD

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

Round window of the mind is  the column about mental therapy written by doctors of Kokoronomori Shinjuku Clinic.

 

In March, as we are living in Tokyo, we cannot avoid remembering about traumatic events in the past, such as the Sarin gas attack on Tokyo subway (20th March 1995) and the Great East Japan Earthquake (11th March 2011). This time, I would like to write something about trauma and PTSD.

 

PTSD; post-traumatic stress disorder was featured after the research of US Veterans from the Vietnam War. It occurs after a traumatic event that involved actual or threatened death or serious injury or a threat to the physical integrity of self or others; such as war and terrorism, natural disaster, physical, psychological, or sexual assault, serious accidents and so on. PTSD patient presents symptoms that include hyper arousal, numbing, re-experiencing, and avoidance. Hyper arousal includes insomnia and hypersensitivity with sounds. Re-experiencing includes repeatedly having flash backs or seeing the traumatic scene in the dream. Avoidance is to avoid the places or situations that reminds, or may remind the trauma. Many researches showed evidence that medication therapy with SSRI or other anti-depressants, CBT (Cognitive Behavioral Therapy), and EMDR ( Eye Movement Desensitization and Reprocessing) therapy are effective to PTSD.

 

However, there are a couple of conditions that should be distinguished from normal PTSD; complex trauma and developmental trauma. Complex trauma is a result from chronic repetitive trauma, such as captivity or entrapment in the traumatic experience. Developmental trauma reflects chronic and repetitive traumatization in childhood that has pervasive effects on the development of mind and brain. In reality, the patient's life that had trauma is not as simple as the theory says about PTSD, because the life after the traumatic event would not be the same as before. For example, there were many people who lost their home, family members, jobs or other precious assets in disasters. And often, it was very difficult or taking so much time to recover their normal daily life. It could be felt like they were entrapped in a traumatic situation. Their life might be resembled to the situation with complex trauma.

 

Freud described trauma as piercing a protective shield around the mental apparatus. With this comes an emotional flooding, so that the usual discriminatory processes that protect the mind from being overwhelmed are lost. We can regard this is the first phase of the response to trauma. The patient has shock and disintegration of mental functioning. Then the second phase follows. Feeling powerful anxiety including dread, horror, persecution, and falling apart, the patient may feel that all the goodness in the world is lost, along with an expectation of being protected and loved. Hopelessness is central of trauma. Personally, I don't think it is enough to give drugs or formalized therapy for these patients.

 

British Psychoanalyst, Caroline Garland writes,

 Treatment begins with the sense of being listened to by someone whose intention is to understand. If the therapist can take in something of the magnitude of what has happened to the patient, internally and externally, without being totally overwhelmed by it, there is a hope once more of re-establishing a world with meaning in it.

 

(Gugan)

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心の丸窓(30)命日反応

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

  

 昨秋のとある夜、私は高校時代の仲良し二人と会食をしました。実はその一ヶ月ほど前に、そのうちの一人の愛犬が14歳で天国へ旅立っていたのです。悲しみに暮れる彼女を想い、私達が開いた「偲ぶ会」でした。彼女の眼には一瞬涙が溢れましたが、その後はいつもの穏やかな表情で愛犬の思い出話をしみじみと語り、私達はそれに耳を傾けたのでした。それからも彼女の悲しみはまだ十分に癒えてはいないけれど、幸い病むまでには至らず暮らしています。

 さて心の丸窓(25)では、大事な対象を失ったことによる心への衝撃は、その後暫くだけではなく、年余にわたり変遷しながらその人の心の在り様に影響を与えていくことが述べられています。その一つに「命日反応」と呼ばれるものがあります。それは、命日など深刻な対象喪失をした時期の前後に、その時の想いとともに心身の変調が反復して起きることを言います。として例えば先の友人ですが、今年の秋が近くなるにつれて亡くした愛犬への想いを新たにし、物悲しい気分が強くなるかもしれません。こうした反応も、自然の経過とみなせる程度のことが多いでしょう。しかし生活に支障を来すほどならば、対象を失ったことからの回復過程での心の作業(喪の仕事)が滞っている可能性があります。このような場合には、早めに専門家に相談することをお勧めします。私達は、患者さんから良くお話をうかがった上で、必要に応じて薬物療法やカウンセリングなどその方に合った適切な治療を行い、心の健康を取り戻すお手伝いをしています。

(MUSASHI:記)


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心の丸窓(29)お酒について

「心の丸窓は」心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 2015年最初の心の丸窓です。皆様どのような新年を迎えられましたか? 忘年会や新年会など、年末年始はお酒と関連する行事が多くなります。今回はお酒についてのお話です。

 現存する一番古いお酒の記録は、紀元前数千年前のもので、お酒と人間の付き合いはかなり昔からあるようで す。お酒に関する有名な言葉に「酒は百薬の長」というのがありますね。適量の酒はどんな良薬よりも効果がある、とお酒の効能を説いたものです。確かにお酒 には、緊張を緩和させたり、食欲を増進させたりと良い面があります。ただし、これは「適量」の場合にのみ言えることです。では、日本人にとって「適量」の お酒とはどのくらいの量なのでしょう? 厚生労働省の「健康日本21」によれば、「節度ある適度な飲酒」は、アルコールにして1日平均20g程度とされています。つまりビールだと500ml、日本酒で1(180ml)、ワインでグラス2杯程度(200ml)、焼酎半合(90ml)くらいとなります。

 この「適量」を越えてしまうと、お酒の害の方が目立ってきます。「徒然草」には、「百薬の長とはいへど、 よろずの病は酒よりこそ起れ」とあります。お酒の害としては、身体に対しては、肝臓への障害、脳卒中や心臓病の危険性を高めるなどといったもの、心(脳) に対しては、不眠症やアルコール依存症などがあります。「寝酒」という言葉があるように、お酒は眠りを良くするのではないか? と思われる方もいらっしゃ るかもしれません。確かにお酒は寝付きを良くしますが、眠りは浅くなり、翌日の集中力が弱まってしまいます。アルコール依存症におちいると、大事なことが あってもお酒を飲むことが最優先となり、常にお酒を求めてしまう精神状態と、お酒が抜けた時に現れるイライラや不眠、さらには幻覚を伴う意識障害といった離脱症状などが見られます。また長期にわたって飲酒を 続けることで、栄養障害とそれによる記憶や意識、あるいは見当識の障害(自分がいつどこで何をしているかがわからなくなる状態)あるいは小脳失調など、元 には戻らない重たい神経障害に陥ることもあります。

 今回の記事では、お酒が有する長短両面について述べました。是非、「適度」なお酒との付き合い方を心掛けたいものです。

さてここで、お酒と脳に 作用する薬の関係について一言述べて終わりにしたいと思います。精神科、心療内科で処方される薬のほとんどは、お酒と併用することで効果が不安定になるこ とが知られています。具体的には、翌日まで効果が持ち越して眠気が残ったり、転倒して怪我をする恐れがあったり、呼吸抑制による低酸素状態が起こる致死的 危険もあります。このように、お酒と脳に作用する薬を併用するのはさまざまな危険をはらみますので避けるようにしましょう。

 

 

(湖底の月 記)

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心の丸窓(28)こころの療養を支えるいくつかの制度について

「心の丸窓」は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

う つ病などの精神的な不調により、やむをえず休職せざるをえない場合や、治療が長期にわたってしまう場合、病状そのものについての心配とともに、経済的な先 行きに関しても不安がよぎるものです。医療費や生活費を捻出できなくなると心配するあまり、本来必要なはずの休養や治療自体を諦めてしまうこともあるかも しれません。そうした不安を少しでも軽減し、療養に専念することを支える制度がいくつかあるのですが、案外に知られていないように思います。そこで今回 は、2つの制度の概略をご紹介します。

 

(1) 傷病手当金

傷病手当金とは、雇用労働者が加入している健康保険の「保険者」から支給されるもので、病気や怪我のために仕事を休み、事業主から十分な報酬が受けられない場合に、病気休業中の生活を保障するために設けられた制度です。この場合の「保険者」とは、「全国健康保険協会(協会けんぽ)」や「健康保険組合」のことで、支給の条件は、業務外の病気やけがで療養中であること、療養のため労務不能であること、連続して3日間会社を休む「待機」の期間を経て、4日以上休んでいること、給与の支払いが無いこと、となります。支給額は、1日につき、標準報酬日額の3分の2に相当する額で、その支給期間は、支給を開始した日から数えて16か月です。

また、残念ながら退職となってしまった場合でも、次の2点を満たしている場合には、引き続き、残りの期間について支給を受けることができます。退職日までに継続して1年以上の被保険者期間 があること、保険の資格喪失時(つまり退職時)に傷病手当金を受けているか、または受ける条件を満たしていること、が継続給付の条件となります。

 

(2)自立支援医療制度

公的医療保険による通院医療費の自己負担額を軽減する公費負担医療制度です。うつ病などの精神疾患で、通院による治療を継続する必要性のある病状の方が対象となります。所得に応じて1か月あたりの自己負担額を決定するのですが、公的医療保険で3割の医療費を負担しているところがおおむね1割程度に軽減されます。ただし、入院治療、公的医療保険が対象とならない治療・投薬の費用、精神障害と関係のない疾患の医療費、は対象外です。

 

  詳細は、傷病手当金に関してはご自身が加入している「保険者」に、自立支援医療制度については市町村の担当窓口(障害福祉課・保健福祉課など)に確認して みてください。治療を安心して継続できる環境の整備も大切なことです。こうした制度のご利用の際には主治医の意見書が必要になりますので、お申し出くださ い。

(耕雲 記)

 

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心の丸窓(27)月経前緊張症(月経前症候群)と心療内科・精神科:後編

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

前回は、月経前緊張症/月経前症候群(PMS)や月経前不快気分障害(PMDD)とはどのような状態や障害なのかをお伝えしました。今回はこれらに対する治療についてお話ししたいと思います。

 

治療に際しては、詳しい問診や基礎体温表などに基づく月経周期との関連性を把握します。さらに血液検査による女性ホルモン分泌状態の評価も行い、病態を十分把握した上で方針が立てられますが、多くの場合薬物療法が有効です。婦人科では低用量ピルの内服によって主に身体症状の軽減が図られます。頭痛、腹痛、腰痛などに対する鎮痛剤の併用も適宜行なわれます。また心身の多彩な症状を伴うこの障害に対しては、桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)や桃核承気湯(とうかくじょうきとう)などの漢方薬が有効な場合があります。出血量が多いために鉄欠乏状態に陥っている場合は、鉄剤の内服、あるいは鉄分を多く含む食餌療法の併用が有効です。血糖値の低下傾向が症状の悪化を招いている場合は、少量頻回に分けた食事摂取で症状が軽減されることもあります。有酸素運動が心身の症状を和らげるので、ウォーキングやスイミングなど、日頃から適度な運動を積極的に取り入れることも検討してよいことです。

 

いっぽうPMDDのように精神症状も中等症以上になる場合は、うつ病との関連も含めて総合的に検討される必要があるでしょう。具体的には精神症状の様相に応じて、SSRIなどの抗うつ薬や抗不安薬、睡眠導入剤などの服用が考慮されねばなりません。さらに背景に、より深刻な心理的苦悩がある場合には、精神療法の中で時間をかけて取り組む可能性もでてきます。 いずれにしても単に症状だけでなく、心と身体の深い関わりを理解し、社会的営みにも配慮しつつ相談と治療に取り組むことに心がけねばならないと、私たちは考えています。

 

(カラマツ林の梟)

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心の丸窓(26)月経前緊張症(月経前症候群)と心療内科・精神科:前編

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人の心と身体は互いに深く影響を及ぼしあっていますが、女性の場合月経にまつわる現象もその例外ではありません。閉経前後に、のぼせやめまい、動悸や耳鳴などの身体症状とともに、イライラや気分の落ち込みなどの心の症状を来す更年期障害は、そのよく知られた一例です。

 

月経に関連して頻度の高いもう一つの症候に、月経前緊張症あるいは月経前症候群(premenstrual syndromePMS)と呼ばれるものがあります。個人差は大きいものの、女性であれば、月経に先立つ時期にお腹の痛みや膨満感、胸の張り、食欲亢進、眠気といった身体の変調を、多かれ少なかれ自覚するものです。それらの不調が比較的重い場合、医学的には月経前緊張症あるいは月経前症候群と呼びます。日本産科婦人科学会では「月経前3ないし10日の間続く、精神的あるいは身体的症状で、月経発来とともに減退ないしは消失するもの」と定義しており、成熟女性の約半数に見られると推測されています。その多くは日常生活に支障をきたすこともなく自然に回復するため治療を要しませんが、苦痛が著しく支障をきたす場合には何らかの手当てが必要となります。とりわけ情緒不安定や抑うつ気分、不安焦燥感などの精神症状が強い場合は、月経前不快気分障害(premenstrual dysphoric disorderPMDD)と呼び、治療を必要とすることが多くなります。

 

PMSPMDDも、月経周期を調整する女性ホルモン(卵胞ホルモン、黄体ホルモン)が作用を発揮するさまざまな器官のホルモンへの感受性の違いと関係していると考えられていますが、原因や病態はまだ十分解明されていません。私たちの印象では、うつ病などの気分障害との合併は比較的多いようです。PMSそのものは本来それほど重くはなかったのに、うつ病を患ったために重症化していることもあれば、PMSが重症なため、生活のさまざまな領域で支障をきたし、結果としてうつ病の併発を招いたり、もともと患っていたうつ病を悪化させている場合もあります。さらにPMDDは近年、うつ病の一形態と位置づけられるようにもなってきました。このようにPMSPMDDは身体と心の両面から適切な見立て、理解し、対処することが求められます。次回はその対処、治療についてお話ししましょう。

 

(カラマツ林の梟)

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心の丸窓(25)喪った人を想うこと

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

  

 今年もお盆の時期が過ぎ、夜気には涼風が混じるようになってきました。お盆といえば昨今は、休暇のほうに焦点が当てられがちですが、本来は亡き人々(先祖)の霊がこちら側にひととき戻ってくることになっている期間です。このように慣習的に私たちは亡き人々とときどき向き合うわけですが、そのときの相手というのは、私たちの心の中に結ばれた像といってよいでしょう。

 心の丸窓(13)(24)にあるように、大切な対象を喪うことは、心にたいへん大きな揺さぶりを与えます。しかしこれはもっともなことでもあるのです。十分に揺れた後、時間の援助を得ながら少しずつ、亡き対象心の像としてまとまってゆくものです。心の揺れが安全に過ぎていくためには、喪失という体験を誰かと共にすることの意義が大きく、葬送に関するさまざまな儀礼には別れや送りをシステムの形にした文化としての側面があります。

 ところが、喪失をめぐるより個別的な心の中のことについて、じっと見つめたり、繰り返し思ったりすることが、保留されたままで過ぎてしまうこともあります。すると、場合によっては、心の一部の柔軟性を削がれてしまうこともあれば、予期しない不安定がもたらされることもあります。それは必ずしも専門的援助を必要としない不具合であるかもしれません。あるいは、治療を必要とする心の病にまで至ることもあります

 精神科の診療においては、こうした状況全体を見渡して、どのような心の状態になっているのか、そして何が必要なのかを患者さんとともに考えていく役割を担っています。そして大切な人は喪われても、見送る人の心の中に確かな形で像が結ばれてゆくことを願い、援助したいと思っています。

 

(風蘭 記)

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心の丸窓/Round window of the mind(24) Depression

心の丸窓は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

Round window of the mind is  the column about mental therapy written by doctors of Kokoronomori Shinjuku Clinic.

 

 When one gets depressed, we may hypothesize that one has lost something, which can not only be an actual thing or person, such as his close family, but also honor, position, hope, self-esteem, etc., anything he felt important. This might be a part of normal reaction. However, sometime one can be suffered from "Depression", which continues for abnormally long and one cannot recover from it without other's help.

 How is this caused? One of the explanations might be following. For example, if you lost your mother, of course you know your mother no longer exists, but you may not be able to accept the reality deeply in your mind (unconsciously). You might be angry with her who left you with pain. But you cannot allow yourself to feel this anger, because, how you can blame your dead mother, whom you loved most, about dying? Then, this anger would remain unprocessed in your deep unconscious, and prevent you to mourn your mother properly. Thus your "Depression" is preserved.

 This is a part of what Freud said about Depression (he used the word Melancholia), roughly 100 years ago. But I think this is still relevant and useful to understand Depression.

 

Gugan

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心の丸窓(23)ストレスを溜めない生き方〜不動智の境地〜

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

 私たちがストレスにさらされた時、それにうまく対応できればストレスを溜め込んで病的状態に陥らず適応していけることは、すでに心の丸窓(17)(18)で述べられました。

 ところで皆さんは不動智という言葉をご存じでしょうか? 不動心と較べると、馴染のない言葉かもしれませんね。不動心が、「何事にも動揺しない心のありよう」を指すのに対し、不動智は「何事にもとらわれない、自由に動く心のありよう」を指すのですが、これは江戸時代に沢庵という禅僧が剣術家柳生宗矩との兵法談義の中で説いたものです。

  もしも私たちの心が不動智の境地に達していたら、どんなストレスに見舞われても自分の願望や人からの評価、将来の不安、健康上の不安などにとらわれること なく、泰然自若としていられることでしょう。ところが凡人の私たちは、そういうわけにはいきません。さまざまなことにこだわり、とらわれて神経をすり減らし、不合理に何度も同じ行為を繰り返してしまったり(強迫神経症)、身体の病気ではないかと過剰にこだわり心配になったり(心気症)、適応障害<心の丸窓(6)(12)(21)>やうつ状態<(2)(3)(5)(10)(11)(13)(15)(16)>に陥りかねません。

  そんな時には早めに受診しましょう。最近ではこだわりを和らげる効果のある薬も、一般的に処方されています。また精神療法の中で、とらわれやこだわりの無 意識的源泉を探究することが役に立つこともあります。沢庵によれば不動智の境地に至るには、特定のことに心を留めず心を自由にさせておくよう修行を積むことが必要とあります。でも不動智を求めようとし過ぎることはかえってとらわれを生むことになるし、難しい道のりです。まずは、気がかりなことがあっても必要以上に思い煩わず適度な気分転換の方法を身に付けたり、適切な相談相手の力を借りるといったことを心掛けてみてはいかがでしょう。

 

(MUSASHI 記)

 

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心の丸窓(22)心の病の診断について

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 

私たち精神科医・心療内科医は、日々の診察の中で患者さんと向き合って診断する際、主に2つの診断基準を参考にしています。今回はそのことについてお話しします。

診断基準の1つは、世界保健機構WHOによる「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(英名:International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)で、頭文字をとってICDと呼ばれるものです。現在は1990年発表の第10改訂版ICD-10が使われています。もう1つはアメリカの精神医学会による「精神疾患の診断・統計マニュアル」(英名:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)で、頭文字を取ってDSMと呼ばれるものです。DSMはこれまで第4改訂版(DSM-Ⅳ-TR)が使用されてきましたが、昨年第5改訂版(DSM-5)が導入されました。ある調査によれば、統合失調症、躁うつ病、神経症の分野において精神科医が診断する際、その9割弱がICD、もしくはDSMに基づいているとのことで、欧米同様わが国においてもそれらの基準が広く浸透していることがうかがわれます。

 この2つの診断基準の歴史の中で最も衝撃的だったのは、1980年のDSM-Ⅲの登場でしょう。そこでは、明確な操作的診断基準が初めて導入されたからです。操作的診断基準というのは、病気に特徴的な複数の症候(例えばうつ病なら、不眠、食欲低下、気分の落ち込みなど)のうち何項目が患者さんに該当するかに基づいて診断を決定するというものです。ICDの方もICD-10から操作的診断基準を導入しています。この操作的診断基準の登場により、それまで各医師の主観に偏りがちだった心の病の診断に、一定の客観性が持ち込まれた ことは画期的なことでした。しかし一方でそれは、表に現れた症候にのみ注意が払われ、その背景にあるその方その方の歴史や、発症に至る経緯、病を長引かせている要因といったものを軽視する危険性を孕んでもいます。例えば操作的診断基準で同じ「うつ病」と診断しうる2人 の患者さんがいたとしても、片や残業などの過酷な労働状況の中で疲れ果てて発症し、片や愛する伴侶を病気で亡くして発症したという大きな違いがありうるのですが、それが見落とされてしまいかねないのです。そしてこの違いを見立てておくことは、どのように治療を組み立て、進めるかを考える上で欠かせないこと なのですから、この危険性について私たちは常に意識しておく必要があります。私たちは症候に着目した診断基準によって導き出された診断名だけにたよらず、 それらの背後にある患者さん各々の体験と心に寄り添った診療を心掛けて行きたいと考えています。

 

(湖底の月 記)

 

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心の丸窓(21)新生活を迎えた方に〜適応障害を来さないためのちょっとしたコツについて

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


 4月 を迎えると、新入学・進級、就職・転勤、転居など、さまざまなイベントにあふれた新生活に私たちは入って行くことになります。しかし、新しい体験をしながら、新しい生活に心身ともに適応していくことは、思いのほかたいへんな作業です。なぜなら、私たちは新生活を進めていくことと並行して、これまでの生活を 失っているからです。たとえば、新社会人であれば、学生や子供という立場を失い、異動した社会人であれば、これまでの役責や人との関わりを失います。私たちはこの時期、実は、新生活と喪失体験の両方に適応しなくてはならないのです。何かを手放したことに寂しさや悲しみを感じる一方で、何か新しいことに期待 と不安を抱きつつ、とても慌ただしく過ごしているうちに、次第に「ストレス」をため込み、疲弊していく人も少なくありません。実際この時期には、私たちの 外来に「適応障害」(心の丸窓(6)(12) )に陥っている人が多く訪れます。不安・緊張はもちろんのこと、意欲低下・抑うつ気分・不眠・さまざまな身体不調など、人によって症状は多彩で、ときに薬での治療をお勧めすることもあります。

 ここでは、このピンチを乗りきるちょっとしたコツをお話してみたいと思います。1つは、「すぐに・上手に適応することをあきらめること」です。どんな物事でも、適応していくにはそれなりの時間が必要です。たとえば、新入社員であれば、1年目から成果を上げようとすること自体に無理があります。むしろ、新入社員の最初の仕事は、「きちんと失敗すること」であって、「失敗し慣れる・怒られ慣れる・サポートされ慣れる」ことの方が重要です。2つ 目は、言うまでもなく「充分に休み、体調を整えること」です。適応が上手くいかない時、私たちはつい挽回しようと思って無理をしがちですが、これはあまり よい対処とは言えないでしょう。無理をしたからといって、必ずしも適応がはかどるわけではないのですから、むしろ、よく食べ、よく眠ることを優先してみて はいかがでしょう。3つ目は、私たちが、何かを手放したことで傷つきながら新生活を始めたことにも目を向け、「自分の心をいたわること」です。失ってしまった大切なものへの思いがよみがえり悲しみのこみ上げる時をしばし過ごすことも、新しい生活に適応していくためには大切なプロセスなのです。

 

(耕雲 記)

 

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心の丸窓(20)ストレス・コーピングと精神療法(カウンセリング):後編

心の丸窓は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。 

それぞれの人のストレス・コーピングの在り方はたいへん複雑で、実に個性的なものです。それはストレス・コーピングが個人のもって生まれた気質を基礎に、今日に至るまでの多くの人々との関わり〜とりわけ心のあり方の基礎が形成される、生後数年間の養育に携わった両親との濃密な関わり〜を通じて獲得されていくものだからです。そしてそれがうまく機能し得なくなったとき、あるいはその機能を超えたたいへんなストレス状況におかれたとき、心と身体はさまざまな不具合を生じるのです。

そのようなとき私たち心の専門家は、十分に機能できなくなったコーピングを補強したり、より適応的なコーピングへの成長を支援します。そしてそれは薬でも機械でもなく、生きた情緒と思考を兼ね備えた心理的存在としての私たち自身、つまり私たちの「心」を用いて行なわれます。それゆえそれは心理療法、あるいは精神療法(psychotherapy:サイコセラピー)と呼ばれるのです。心を用いて影響を与えるといっても、それはあくまでも科学的な理論と技法に基づいて行なわれる治療法であるという点で、親子や友人関係で生じる心の交流とは異なるものです。

精神療法においては、その人の心のありようやその外的な表れとしての行動の特徴がいろいろな形で持ち込まれ、患者さんと治療者(セラピスト)との共同作業の中で吟味されることになります。例えば何事につけ成功や達成が間近になるとひどく緊張し、決まってミスを犯して成果を取り落としてしまうという人(仮にAさん)がいるとします。そこではいったい何が起っているのでしょう。もしかするとAさんの中では、周囲の人々は嫉妬深く、自分の成功を内心快く思わないのではないかという不安があり、それに屈するものかという思いが過度な緊張を呼び、結果として失敗を招いてしまうということが起っているのかもしれません。その場合Aさんの現実の捉え方(認知)が過度に偏っているために事態の悪化を招いていることを共有し、その修正を目指すのは一つの解決方法でしょう。このような認知の修正に焦点を当てる精神療法を認知(行動)療法といい、通常数ヶ月単位の取り組みとなります。

いっぽう人は頭で分かっても、そのとおりにやり方を変えるのはなかなか難しいという部分も持っています。それは人が感じ、考え、行動し、人と関わるという生きる営みが必ずしも全て意識的に行なわれているわけではないからです。むしろその多くは無自覚的、無意識的に生じる過程なのです。単なる知的理解は残念ながらこの無意識の心の過程にはほとんど影響を及ぼしません。影響を及ぼすためにはそこに生き生きとした情緒体験を伴う理解(情緒的理解)が必要なのです。Aさんの場合、たとえばセラピストに意識的には信頼を寄せながら、自分の治療がうまくいきそうになると、そのセラピストまでもがそれを快く思わないかも知れないという不安が、無意識のうちに面接場面で生じる(再現される)という局面があり得るのです。そしてこのセラピストとの間に今ここのこととして生じる思いや考えをともに見つめ理解する中で、情緒的理解がようやく芽生えるのです。そのような過程にまで理解の範囲を広げる精神療法を精神分析的精神療法と呼びますが、深い心を扱うため通常年単位の取り組みが必要となります。

どのような精神療法に取り組むのが適しているのかは、時間などの外的な要因だけでなく、個々の心のありようや治療への動機づけなどさまざまな要因を考慮し、ご本人と医師とが十分に話し合いながら決めていく必要があります。

(カラマツ林の梟 記)

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心の丸窓(19)ストレス・コーピングと精神療法(カウンセリング):中編

「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

今回は当初、このテーマの後編として精神療法(カウンセリング)のことを書くつもりでしたが、予定を変更して中編を設け、ストレスをめぐる別のテーマについてお話ししたいと思います。それはこの間に世界を驚かすビッグニュースが飛び込んで来たことと関係があります。

2014年1月30日付の新聞の一面は、若い日本人女性研究者(小保方晴子さん)が、新たな万能細胞(STAP細胞)の作成に成功したという画期的ニュースを報じていました。STAP細胞は、ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥教授らによるiPS細胞と呼ばれる万能細胞とは全く別の発想によるものです。彼女はいったん分化した身体の細胞を弱酸性の液体で刺激するだけで、受精卵同様に身体のさまざまな組織細胞に分化しうる万能細胞に戻す(初期化する)ことができることを発見したというのです。生命科学の常識を覆すこの方法の基本原理は、あきれるほど単純で、分化した細胞を一定のストレッサーに曝すとそれが万能細胞に戻るというものです。平たく言えば、ストレッサーに曝すと細胞が振り出しまで若返ると言ってもよいでしょう。細い管を通過させたり、毒物を与えたり、熱を加えたり、飢餓状態に曝したりといったさまざまなストレッサーが試される中で、弱酸性の液体によるストレスが最も効率的に細胞を初期化することが突き止められました。

このニュースに希望に満ちた驚きを感じながら、私はストレスと人の健康状態との関係についてのある研究結果を思い出していました。それはストレス度が高まると健康状態が悪化する人たち(A群)がいる一方で、逆にストレス度が高まると健康状態が増進する人たち(B群)がいるという興味深い研究です。両群の人々の間にはどのような違いがあるのでしょう。さらに研究を進めていくと次のようなことが分かってきました。自己評価が低く周囲からのサポートが乏しい人々は、ストレス度が高まる程健康状態が悪化し(A群)、逆に自己評価が高く周囲からのサポートが十分得られている人々は、ストレス度が高まる程健康状態が増進する(B群)のです。このことは私たちに2つのことを教えてくれます。1つは、ストレスは必ずしも有害とは言えないということです。そしてもう1つは、ストレスによって健康を害するのではなく、むしろ健康増進に役立てるために私たちにできることは、自己評価を高めていくこと、そして周囲の人たちからのサポートを有効に活用してくことだということです。もちろんいずれも簡単なことではありませんが、この研究はストレスコーピングにおける一つの方向性を示してくれていると言えるでしょう。

さて次回こそ、ストレスコーピングの本格的取り組みとしての精神療法(カウンセリング)についてお話ししたいと思います。

(カラマツ林の梟 記)

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心の丸窓(18)ストレス・コーピングと精神療法(カウンセリング):前編

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

 「ストレス・コーピング」という言葉をご存知でしょうか。これは米国の心理学者ラザルス博士が考案した心理学用語で、「ストレス対処(行動)」と訳されるものです。

 そもそもストレスとは、物体あるいは人間に外部(環境)から加わった何らかの力・作用(これをストレッサーと呼びます。人間に関していえば、たとえば外気温の上昇や下降、細菌の感染、あるいは社会的作用としての就職や転勤など)によってその内部に生じた「歪み」、あるいは「変化」のことです。

 一般的にストレスといえば社会的場面が思い浮かぶでしょう。たとえば会社員のAさんが上司から、量的にも内容的にもかなり負担の大きい課題を任されたとします。Aさんはそれを脅威に感じ(それがストレッサーとなり)、にわかに不安が広がります。不安に伴い動悸や食欲の低下、あるいは睡眠障害が生じ、その状況が長引くうちに気分は憂うつになり、出勤することが苦痛でたまらなくなります。それらが高じれば適応障害やうつ病に陥ることもあります(→心の丸窓3、5、6、10、11、12、13、17)。こうしてAさんの中に生じるさまざまな変化をストレスと呼びます。人は本能的にそれらに適応しようとし、その際にとる対処をストレス・コーピングと呼ぶのです。

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 ストレス・コーピングは問題中心型コーピング(problem-focused coping)と情動中心型コーピング(emotion-focused coping)に分けられます。前者はその人と環境との関係の在り方を実際に変化させようとする対処です。たとえばAさんが上司に対して、任された課題が過重なのでそれを軽減してもらおうと相談したとすると、それは問題中心型コーピングと言えます。一方実際の状況ではなく、状況に対するその人の捉え方を変化させることで対処するのが情動中心型コーピングです。Aさんが、当初は無理と感じ不安になったものの、これまで自分が成し遂げて来た力に信頼を置き、いざとなったら同僚にも手伝ってもらうことで何とかこなせるだろうと、前向きに事態をとらえ直すことで不安やそれに伴う心身の不具合を解消したとすると、それは情動中心型コーピングが上手く機能したと言ってよいでしょう。このように双方のストレス・コーピングを上手に用いることができるか否かが、その人のストレスへの強さを左右するのです。またストレス・コーピングには意識的な水準のものと、無意識のうちに用いられるものとがあり、実際にはとても複雑に関連し合いながら機能しているのです。

 精神科での治療は、薬だけでなく、生じている問題や困難がどのようなストレッサーとストレスに基づくものなのかを、患者さんと担当医が協力して明らかにし、より適切なコーピングをオーダーメイドで探って行くプロセスと言ってもよいでしょう。その際医師には、その方の心や人間関係の在り方、あるいはコーピングの様相を細やかに分析し理解していく視点、力量が求められます。またこれらのコーピングに主眼をおき、より本格的に事態を解決していく取り組みとして精神療法(カウンセリング)がありますが、それについては後編でお話ししたいと思います。

(カラマツ林の梟)

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心の丸窓(17)ストレスと心の抵抗力

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

  師走のあわただしさは、私たちの心をざわめかせます。これも一種のストレスといえます。また、年末年始のにぎわいに気持ちが乗れない人にとっては、まわりの華やかさもストレスかもしれません。

  このようにストレスとは日常のあちこちにあるものです。心が健康であれば、少々のストレスには持ちこたえ、自然に回復します。しかし、強度の強いストレス や、長期に続くストレスにさらされると、人の心は弾力性を失い、しばしば不眠や不安、体調不良など何らかの症状が生じてきます。こうしてストレスに起因す る心の障害というものが現れるのです。心の丸窓(6)(12)

  このような場合、まわりからの刺激の影響だけでなく、その方がどんな刺激に抵抗力が弱かったり強かったりするのか理解していくことも重要です。この点にご 本人がすでに気づいている場合も、気づかずに過ごしている場合もあります。繰り返しストレスに反応する症状を経験する方で、ご自身の内面を深く知りたいと いうお気持ちをお持ちでしたら、カウンセリング・精神療法について精神科でお尋ねになってみてはいかがでしょうか。

 

(風蘭 記)

心の丸窓(16)うつ病の養生いろは その2

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  前回はうつ病の養生として、い)「治る」と思うこと、ろ) 休むこと、) 薬を飲むこと、に) 周囲の人と関わること、について説明をしました。今回は、その続きを述べます。

) 食べること: うつ病では食欲が低下しますし、何を食べて良いかも考えられなくなることがあります。特に一人暮らしの方は、心細いですね。でも今は、コンビニでもいろいろな食料は手に入れられます。選ぶのが億劫なら、同じサンドイッチだって良いのです。とにかく、栄養補給しましょう。

) 活動すること: 初めは何もしたくないでしょうが、休養し薬の効果が出てくると、「~~してみようかな」という気力が出てきます。それと同時に、「でもなんだか億劫」という気分も出てきて迷うことがあるかもしれません。そうした時は、両方の気持ちが五分五分なら、とりあえず行動してみても良いでしょう。もちろん、やってみて疲れたら無理せず休んでください。

それと同時に、やれそうだと思うことの6割程度を目安に始めてみるのがこつです。当初は思いのほか疲れるものですから、軽めに押えながら、活動の内容と量を無理のない範囲で徐々に増やして行きましょう。気がついたら、元気だった頃と同じように活動できている自分が戻って来ているはずです。

) 医者と付き合うこと: 診察では、自分の状態をありのままに伝えましょう。医師は患者さんの報告や診察時の様子を参考にして、薬を調整したり必要なアドバイスをします。現状に見合った質の良い治療には、患者さんの率直な報告が必要です。また、わからないことや不安なことがあれば、遠慮なく医師に尋ねましょう。私たちは患者さんからそうした投げかけをいただき、誠意をもって対応することにより、信頼関係が育まれていくと考えています。

  以上、うつ病の養生の基本を簡単に述べました。当クリニックでは、ただお薬を出すだけではなく、患者さんが良質の養生を経て一日も早く回復できるよう細やかに配慮しています。

 

(MUSASHI:)



心の丸窓(15)うつ病の養生いろは その1

☞「心の丸窓」は心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。

「心の丸窓(2)」の「うつ病と励まし」では、うつ病になった方への周囲の人々の接し方が取上げられました。今回は2回にわたり、うつ病を患っているご本人の養生の基本についてご説明します。

) 「治る」と思うこと: うつ病になると、考え方すべてが悲観的になりがちで、「どうせ治らない、このまま苦しさが続くのでは」と絶望的な気分になることがあります。しかし、うつ病は適切な治療と休養により必ず治る病気です。もし悲観的な考えが浮かんだ時には、「これは病気による考えだ」とひと呼吸おいてみましょう。

) 休むこと: 「休養しましょう」と言われても、元来生真面目な性格傾向を持つうつ病患者さんは、休むことに「申し訳なさ」を感じがちです。でもここは「回復のために必要なこと」と受け入れましょう。「休養」の第一は、生活リズムの大枠は崩さないように注意し、夜に十分な良質の睡眠をとることです。そのために必要ならば睡眠薬を調整してもらい、眠れるようになるだけでもずいぶん楽になるものです。

) 薬を飲むこと: 薬物療法は多くの方にとって回復のためのとても有効な手段です。初めは薬を飲むことさえ億劫だったり、抗うつ薬の服用を漠然と怖く感じるかもしれませんが、ここは頑張りどころです(服薬にまつわる不安については心の丸窓(7)「うつ病と薬」をご参照下さい)。副作用には神経質になりすぎず、不安なことがあれば遠慮なく医師に尋ねてください。抗うつ薬の効果は、2週間程して徐々に現れます。ゆっくりですが、でも必ず効いてきますから焦らずに待ちましょう。

) 周囲の人と関わること: 丸窓(2)で述べられたように、うつ病の方が無理に活動の誘いに応じるのは禁物です。もしも、このように働きかけられたときは、患者さんは率直にそれが負担だと言って良いのです。誘いを断ることは、申し訳ないことではありません。また、自分に必要な助けは周囲の人に求めましょう。こういう時は、遠慮せず人を頼ることで道が開けます。

 次回は、ほ) 食べること、へ) 活動すること、と) 医者と付き合うこと、について説明をします。

(MUSASHI: 記)

心の丸窓(14)薬の処方について〜 一般名処方

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今回は平成2591日から心の杜・新宿クリニックで導入される「一般名処方」についてご説明したいと思います。「一般名処方」というのは、厚生労働省がジェネリック医薬品(後に説明します)の使用促進を図るために推奨している処方せんの形態で、患者さんにも利益のあるものだと考えています。

お薬には有効成分を主に表す「一般名」と各製薬会社ごとの名前の「製品名」というものがあります。例えば痛み止めのロキソニンという有名な薬で説明をします。ロキソニンという名称は「製品名」で、有効成分を表す「一般名」はロキソプロフェンナトリウムといいます。今までの処方せんでは私達医師は「製品名」のロキソニンと書いていましたが、今後「一般名処方」が導入されると「一般名」のロキソプロフェンナトリウムと書くということになります。

ではそれが患者さんの利益にどのようにつながるのでしょうか? まず「ジェネリック医薬品」についてご説明しなければなりません。お薬は開発されて数年は、限られた製薬会社のみで作られる「先発医薬品」として販売されます。そのお薬の特許期間が切れると、その他の製薬会社でも作ることができるようになります。そしてそうやって作られた「お値段は安いけど効果は一緒」というお薬が「ジェネリック医薬品」と呼ばれるものです。例えばロキソニンで考えればロキソニンの薬の値段は約230円、ジェネリック医薬品での最安値(ジェネリック医薬品は数種類ありますので)は約56円。つまり約1/4の値段になるわけです。

さて、「一般名処方」と「ジェネリック医薬品」を組み合わせて考えてみましょう。今までの処方せんでは、私達医師は「製品名」、つまりロキソニンといった記載をしてきました。この場合、患者さんは基本的に薬局でロキソニンを受け取ることになりますが、ジェネリック医薬品も選べるようになっていました。しかし今後私達は「一般名」であるロキソプロフェンナトリウム(正確には「【般】ロキソプロフェンNa」という書き方をします。最初につく「【般】」という字が一般名処方の目印です)と記載をします。その処方せんを持った患者さんが薬局に行くと、患者さんはそこでロキソニンでも、等しくジェネリック医薬品でも選べるようになります。先発医薬品ロキソニンとジェネリック医薬品は上記のように値段の差があるのでジェネリック医薬品を選ぶことで費用削減になると考えられるわけです。ここではロキソニンを例にしましたが、心のお薬でもジェネリック医薬品が作られているお薬なら同様です。

ただ既に処方を受けてきた患者さんにとっては、今まで馴染んできた名称ではないものが処方せんに記載されるということで多少なりとも混乱とご迷惑をおかけすることになるかもしれません。当院ではわかりやすい説明用紙を準備していますし、受付スタッフや各主治医も説明ができますのでご不明な点はお問い合わせください。医療費節減に意味のあると考えられる「一般名処方」です。皆様のご協力をお願い申し上げます。

(湖底の月 記)

心の丸窓(13)うつ から 鬱うつ へ

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 日々生きていく中で誰しも、喪失を経験することは避けられません。近しい人と死別・離別する、仕事や役割を手放す、若さや健康を失うなど、とても残念なことですが、人は大切なものを失いながら生きています。喪失に向き合う時、人は自然な感情としての「鬱」を経験します。力を尽くして生きていればこそ、「鬱」はこの上なく悲痛で辛いことのように感じられ、時に絶望的な気持ちにまで追い詰められることもあるでしょう。

  しかし、「鬱」を辞書で引くと、「草木が茂るさま、物事が盛んなさま」と記されており、本来の意味は、エネルギーが満ち溢れ、生命が豊かに育まれていく様子を表わしていました。例えば、「鬱蒼とした森」などという表現で用いる場合、むしろ肯定的な意味だったのです。第二義的に、そうしたエネルギーや生命力の出口が塞がれてしまい、悶々としている病的な状態を指すようになったようです。普段、気分障害の症状として「うつ」と言う場合は、この二番目の意味を示しています。

  実は、喪失体験のさなかで、森が育つように何かが心に生み出されていく、それが本来の意味での「鬱」です。治療とは、環境調整・薬物治療・精神療法など様々な工夫を凝らしながら、病的な「うつ」の出口を掘り起こし、本来の「鬱」をしみじみと体験出来るようにしていくことなのかもしれません。

 

(耕雲 記)

心の丸窓(12)仕事と適応障害

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 心の丸窓(6)で適応障害をとりあげました。今回は、仕事の悩みとの関連でもう少し焦点をしぼってみます。

 当クリニックは新宿駅に近いこともあり、受診される患者さんには勤労者層の方が比較的多いようです。そして、仕事上のさまざまな条件との関係によって、適応障害の状態となって医療を求められる方がしばしばいらっしゃいます。仕事上の条件といっても、業務そのものの質や量との折り合いがつかない場合もあれば、職場のシステムとの関係、そして職場の対人関係に関する問題など、さまざまです。これらが限界を越えると、具体的な症状〜睡眠障害や、うつ状態、身体症状など多彩な症状〜としてあらわれてきます。また、それぞれの方の適性や心身の体力や抵抗力、性格傾向なども関連することがあります。

 したがって、症状にふさわしい薬を処方するだけでなく、背景にある要素を見極め、どこが変えられるのか、変えられないとしたらどう折り合っていくのか相談することが治療経過中必要になってきます。患者さんたちは、このようななかで、ご自分と仕事との関係を改めて考えてゆかれるようです。

                                                  

<カラマツ林の梟 記>

心の丸窓(11)マリッジブルー

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ブライダルシーズンの6月に先駆けて、マリッジブルーをテーマにしてみます。マリッジブルーは医学的な用語ではなく、一般に結婚をひかえた時期にあらわれる不安やうつ的な状態をさします。祝福されながらの結婚であっても、このような状態に陥ることがあるのです。

結婚は人生においてたいへん大きな選択ですから、気持を決めていても、意識の下にゆらぎがまったくないとはいえません。また、カップルはお互いだけではなく、そのまわりの人々と関係を密にしてゆくことになります。そして、生活の環境はかわり、こどもの立場から妻や夫の立場に移行します。つまり、多くを得るなかでまた、多くを手放すことにもなってゆくのです。

 こうしたライフサイクルにおける激動の時期に、程度の差はあっても、誰しも不安や気持ちの沈みを感じることは不思議ではありません。なかにはその程度が大きく、睡眠障害や体調不良などもまねく場合があります。ごく心理的な症状の場合もあれば、うつ病になりやすい体質をもった方の症状がめだってくる場合もあります。

 いずれにせよ、結婚をひかえた時期に不安や気持ちの沈みがなかなか落ち着かないようでしたら、いちど精神科で気持や考えの整理をしてみるのもひとつの方法です。すべてのケースに薬が必要なわけではありませんが、なかには一時お薬を使うことが支えになる場合もあります。

(風蘭 記)

心の丸窓(10)うつの症状

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 うつの症状には、大きく分けて精神面の症状と身体面の症状があります。さらに精神面の症状は、感情面の症状(ゆううつ気分、気分の落ち込み、悲観的気分、イライラ感、心配性、罪悪感、自責感、死にたい気分など)思考面の症状(思考力・集中力・記憶力・判断力の低下、考えのまとまらなさなど)意欲面の症状(億劫感、無気力、興味や関心の低下など)に分かれます。また身体面の症状には、だるさ、疲れやすさ、痛み(頭痛・筋肉痛・腹痛・目の痛みなど多彩)、肩こり、不眠(典型的な場合は、朝早くに目が覚める。人によっては寝すぎのこともあり)、食欲低下(人によっては食べ過ぎのこともあり)、性欲減退、胸やけ、便秘など、本当にいろいろなものが見られます。そして、精神的な症状が目立たず、身体的な症状だけが患者さんに自覚される場合を「仮面うつ病」ということは、丸窓(5)で紹介しました。

 患者さんたちは、こうした症状のいくつかを自覚し不調を感じて受診します。そこで重要なのは、医師による丁寧な問診です。なぜなら、うつの症状の多くは患者さん自身にしかわからない主観的なものだからです。ですから、患者さんが訴える症状だけでなく、「~~のようなことはないですか?」などと医師の方からも可能性のありそうな症状について尋ねてみることも必要です。私は例えば思考力や集中力の低下に関しては「頭が固まって石のように感じたりしませんか?」とか、「活字を見ても頭に入ってこなくて困っていませんか?」など、患者さんの体験に即した質問をするように心がけています。そうすることで、より詳しい診断に近づけますし、患者さんは自分の言葉になりにくい主観的な症状の理解を得たことを実感しやすくなり、信頼関係を築いていくことに繋がると考え、日々診療しています。

(MUSASHI:)

心の丸窓(9)対人恐怖症について

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「対人恐怖(症)」、「あがり症」と呼ばれている病気があります。例えば、他人と同席して喋るような場面で、相手に嫌がられたり不快に思われるのではないか、相手からばかにされるのではないかという不当に強い不安や緊張感が生じるために、対人関係を避けようとする病気です。この「対人恐怖(症)」、「あがり症」という呼び方は日本古来のものであり、最近ではほぼ同じ状態を意味する社会恐怖(世界保健機構による病名)、社交不安障害(米国精神医学会による病名)という名称で呼ばれることが増えてきています。

もちろん、大勢の人を前に演説をするなど、ほとんどの人が緊張すると考えられる場面で緊張するのは当然で、それだけでこの病気と呼ぶことはできません。しかし、ほとんどの人が緊張しないような社会的状況で緊張して、それゆえにそのような状況を避けてしまうとなると、この病気を疑ってみることも必要だと思います。この病気の患者さんの5%以下しか治療を受けていないというデータもあり、患者さん本人にも周囲の人々にもあまり理解されていない病気の一つだと言えるでしょう。しかしながら患者さんたちが感じている苦痛はとても強く、日常生活や職業・学業など社会機能に重大な支障をきたしうるものであると考えます。

この病気には、うつ病の薬の一部や精神療法が効果があります。ただし、他の病気の1つの症状として対人恐怖やあがり症が現れることもありますので、治療のためには、病気の診断を適切に行い、患者さんの重症度にあった治療法を選択するために専門家への相談が必要と考えます。


(湖底の月 記)

心の丸窓(8)眠ることと睡眠障害

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睡眠はとても日常的な行動です。一日の内の、そして一生の内の多くの時間を人は眠りながら過ごすのですから、より良く生きるためには、より良く眠ることが欠かせません。しかし、「眠ること」に関しては多くの誤解があるようです。例えば、「理想の睡眠時間は8時間」「眠れなくてもベッドでとりあえず待つ」「お酒を飲むと眠り易い」「睡眠薬は危険」といった説は、現代の睡眠医学では間違った考えとされていますが、未だに信じている方が多いように思います。

5人に1人」の日本人が睡眠に困難を抱えていると言われる今日、「睡眠障害」も多岐に渡っており、原因も治療法も様々です。背景に「うつ病」などの心の病気が隠れている場合もありますし、中には、身体的な問題が原因で生じる「睡眠障害」やレストレスレッグズ症候群【註】などといった特殊な「睡眠障害」もあります。精神科や心療内科が関わるのは、主に心の状態に左右されて起こる「睡眠障害」の方です。一方身体の問題が背景にある場合には、内科や耳鼻咽喉科などが関わることが多いようです。

当クリニックの診療では、様々な誤解によって「睡眠障害」への対処が間違った方向に進まないよう、まずは診断を深めながら、正しい知識をお伝え出来ればと思っています。 

【註】 下肢のむずむずとした不快な感覚のために眠りが障害される病気で、原因は様々。

 

(耕雲 記)


心の丸窓(7)うつ病と薬

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うつ病の成因や病状の程度は患者さんごとに異なります。したがって、治療はいわゆるオーダーメイドで考案されねばなりませんが、基本的には次の4つ、すなわち負担の軽減や休養、薬による治療、環境調整、精神療法が適宜組み合わされる必要があります。今回はこの中で薬による治療についてふれてみたいと思います。

うつ病を患う多くの方に抗うつ剤などの薬が有効です。ところが服薬をお勧めしてもためらわれる方もおられます。いくつかの理由があるようです。たとえば副作用が怖いというのはその筆頭でしょう。もっともな理由です。しかし多くの場合、どのような副作用がどれくらいの頻度で現れ、その場合どう対処しうるのかということまでは、必ずしもよく知られていません。そこで副作用の内容や、もしそれらが現れた場合にはどう対処するかということを説明しご相談する中で、それまで漠然と膨らんでいた不安が整理され、納得されて服薬を始められることがほとんどです。こちらとしてもホッとします。それによって回復のスピードが大きく異なることが多いからです。

一方「服薬を始めると一生止められないと聞いたから」とおっしゃる方も少なくありません。心情的にはそのご心配もよく分かるものです。しかしそこには誤解の潜んでいることがあります。つまり薬を飲み始めたことが「原因」で、一生止められないという「結果」になるという誤解です。そこには「飲み始めると依存してしまう」という不安が絡んでいるのですが、それはやはり誤解なのです。確かにうつ病の薬物療法は月単位、場合によっては年単位で継続する必要があります。しかしそれはこの病気が風邪や食中毒のような急性疾患ではなく、体質やおかれた環境、そしてその方の生き方や性格などを基盤とした慢性疾患ゆえのことなのです。

うつ病の薬物療法では、標準的にはできるだけ少量かつ少ない種類の薬で開始し、他の治療と組み合わせながら改善を図ります。そして病前の状態まで回復したら、そこから半年程度服薬を維持し、その後ぶりかえしのないことを確認しながら徐々に減薬を進めていきます。すっかり改善して治療を終えられる方も多いのですが、その方のうつ病の成因によっては、少量の服薬を継続する方がよりお元気に生活を送ることができる場合もあります。ただし、よくご説明し話し合った末に、それでも服薬したくないという方に対しては、特別な場合を除き、その意思を尊重することが医師としてのわきまえなのだと心得ています。


(カラマツ林の梟 記)

心の丸窓(6) 「適応障害」とはどんな病気?

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 「適応障害」という診断名は、たとえばうつ病のようには病気のイメージがわきにくいものです。しかし、実は現代社会とは切っても切れない診断名なのです。というのも、その診断基準には〜明確なストレス因子に反応して情緒面または行動面に症状が出現すること〜と定められているからです。

 日常には大小さまざまなストレス因子があふれていますが、それらへの反応には個人差が大きく、ある人はやり過ごすことができても、別の人にとってはひどく苦しみに満ちた体験になる場合があります。その結果、うつ状態や不安におちいったり、従来はできていた責任の遂行などができなくなる場合があります。このような状態が「適応障害」にあてはまることがしばしばあるのです。

 思い当たることのある方は、打たれ弱いとかだらしないと片付けてしまわずに、いちど精神科を訪ねてみることをお勧めします。「適応障害」の特効薬があるわけではありませんが、状況全体をながめて問題となる要素を検討したり、症状にあわせて薬物を使ったりすることで、現実を大きく変えることはむつかしくても、過ごしにくさが変わっていく可能性があります。

(風蘭 記)

 

心の丸窓(5)仮面うつ病とは?

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 うつ病と言えば、憂鬱な気分や意欲・思考力の低下といった精神的な症状がまず浮かぶでしょう。ところが、うつ病には精神的な症状だけでなく、身体のだるさ、便秘、食欲低下、体重減少、不眠、性欲低下、身体のいろいろな場所の痛みなど、身体の症状もみられることがよくあるのです。そして、患者さんは身体の症状だけを自覚して訴えるため、精神的な症状が覆い隠されてしまっているような場合を「仮面うつ病」と呼んでいます。

 

 ですから、患者さんはまさか自分がうつ病だとは思いもしません。そして、身体のどこかが悪いのだと考えて、それぞれの症状を専門にする医師を受診します。でもそこで、症状に対する薬を処方されても具合は良くならず、検査をしても異常が見つかりません。こうなって初めて、患者さんは心療内科・精神科にたどり着くというわけです。

 

  私たちは、そうした患者さんを迎えて、初診の診察で十分にお話を聴きます。具合が悪くなった頃の生活状況、症状の一日のうちでの変動(うつ病では朝が一番不調なことが多いのです)、過去のうつ病の経験、元来の性格等々。また、医師がじっくり耳を傾ける中で、実は患者さんが憂うつな気分、思考力の低下、億劫さなどを感じていることが明らかになることもあります。

 

 治療は、通常のうつ病のように抗うつ剤を中心とした薬物療法と十分な休養を柱としてゆくことで、回復の道をたどるものです。

 

 

 (MUSASHI 記)

心の丸窓(4) パニック障害について

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パニック障害という病気があります。突然おこる動悸、息切れや浅い呼吸、手足のしびれや発汗、「死ぬのではないか」という恐怖感などを主な症状(これをパニック発作と呼びます)とする病気です。この発作が頻発するようになると、「またあの発作が起こるのではないか」という不安感(これを予期不安といいます)にしばしば苛まれたり、不安を呼び起こす場所を避けて行動範囲が狭まってしまうこともあります。

 

この発作はその特徴から心臓や呼吸器の病気が疑われるため、救急外来や内科を受診し、そこで「身体には問題はありません」と診断されることが多いようです。身体の病気でも同様の症状が起こる可能性があるので、検査で身体に問題がないと診断してもらうことは必要です。しかし、これらの症状がパニック障害によるものだとわからないと、患者さんが身体に問題がないと説明を受けた後、「この発作は何だ?」と不安感、恐怖感を高めてしまう事もあるでしょう。

 

それではパニック障害はどこの病気なのでしょうか? それは脳の病気だと今は考えられています。脳内の情報伝達をする神経伝達物質であるセロトニン系の機能異常が原因であろうと推定されています。そして実際にセロトニンを調節する薬がパニック障害に効果があるということがわかってきています。お薬を服用することでパニック発作や予期不安をおさえながら、症状への対処法や予防法を相談したりすること、また過労や睡眠不足、脱水、心理的な悩みなど、脳の中のこととは別次元のことで症状に影響を与えるような要因を見出してともに対処することは、パニック障害の患者さんにとって大きな援助になると考えられます。 

 

(湖底の月 記)

心の丸窓(3) うつ病と診断する前に

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 平成247月、日本うつ病学会にて初めて、うつ病治療に関して安易な診断・投薬治療に対する自制を促す指針が出されました。いわゆる「うつ病」と診断される方がすでに100万人を超えるとともに、うつ病治療にやや混乱のあることが、その背景にはあります。

 

 実は、「うつ状態」「うつ症状」を呈する病気は多彩で、うつ病だけに限りません。さまざまなこころの病い(躁うつ病・統合失調症・発達障害・認知症・不安障害など)や身体の病気(膠原病・甲状腺疾患・脳血管性障害・神経疾患・悪性腫瘍など)、さらにはクスリの副作用でも「うつ状態」になることが知られています。加えて、死別や離別などの身近な人をうしなう体験、人との関係における葛藤、環境への不適応などによっても「うつ状態」は引き起こされます。

 

 したがって、より良い治療を行なうためには、まずは、自分の「うつ」が何に由来しているのか、その「成り立ち」を治療者と振り返り、理解していくことが欠かせません。「成り立ち」によって選ばれる治療法が異なるからです。 

 

(耕雲 記)

心の丸窓(2) うつ病と励まし

☞「心の丸窓」は、心の杜の医師による心の診療に関するコラムです。


 うつ病の方を励ますことは控えましょうという理解は、近頃比較的共有されてきたように思います。「励ます」というのは、辞書によれば「気力をはげしくさせる」、あるいは「努めさせ、精を出させる」とあり、その意味ではうつ病の方を励ますことはタブーと言ってもよいでしょう。

 うつ病を患っている方というのは、体質的あるいは心理的な理由で、考えることも行動することも、さらには喜びや感動を味わうこともすべて抑え込まれ、話すことや笑うことさえ億劫になっています。そしてそういう自分を不甲斐なく何の価値もない存在のように思い、責め、その辛く絶望的な状態が果てしなく続くように感じているのです。そういう方に、「何もしないから元気が出ないのよ」、「暗い顔をしているから気分がふさぐのよ。明るく笑顔で」と励ますことは、自責の念や孤立感、そして絶望感をいっそう深めさせることになります。

 うつ病は十分な休養と適切な治療によって改善しうる病気ですから、辛さに心を寄り添わせてそれを受けとめ、今は何もできなくてよいのだと認めてあげることは、望まれる対応の基本です。また、その状態からは必ず抜け出られることを伝えて失われかけた希望の灯をともし、十分な休養を保証してあげられたなら、回復には欠かせない一定の安堵感をもたらすことでしょう。そして求めがあれば話を聞き、ともに悩み考え、できる手助けはいつでもする用意のあることを伝え、けっして自分が一人ではなく、支えながら回復を待ってくれる人たちが自分には確かにいるのだと実感できるように接することができれば、それらは良い意味での力強い励ましになるに違いありません。

 

(カラマツ林の梟 記)

心の丸窓(1) どう選ぶ?精神科と心療内科の違い

☞ 心の杜の医師による心の診療に関するコラム「心の丸窓」を始めます。

 こころに関して相談することを考えたとき、精神科と心療内科の選択に迷われることがあるのではないでしょうか。そのとらえ方をしるします。

 現代医学において、こころの在り処は脳であると考えられています。基本的に精神医学では、「こころの悩み」に対して脳の何らかの不調を想定し、その不調の種類によって、薬物療法、生活習慣の修正、精神療法やカウンセリングなどの治療的対応が検討されます。

 精神科では、おもに精神的な症状がめだつ状態に対応します。気持ちがふさいでやる気がなくなるうつ病や、不安がこみあげてくるパニック障害、考えがまとまらなくなり妄想がわいてしまう統合失調症、眠りの不調などです。

 心療内科は、もともとは心理的な要因が深くからむと考えられる身体的な病や症状を扱う診療科でした。たとえば、ストレスによる高血圧、緊張による下痢などです。現実的には、より広い範囲をカバーしていて、たとえばうつ病やパニック障害では身体症状が出やすいため、心療内科でも対応します。また実際には、同じ心療内科という標榜を掲げていても、診療にあたる医師の受けた訓練や経験が精神科寄りか内科寄りかによって、守備範囲はいくぶん異なるといえます。

 

(風蘭 記)